豊中市
戦争体験記
豊中空襲の体験
鵜飼律子(うかい りつこ)さん
1931 年(昭和 6 年)4 月生まれの鵜飼さんは、1945 年(昭和 20 年)6 月 7 日に豊中空襲を体験。その時の空襲で父と姉(満子さん)を亡くします。姉を荼毘(だび)に付し、最期を見届けた様子についてお話いただきました。
昭和 20 年 6 月 7 日、空襲警報で学校(豊中市中部)の防空壕に 15~16 人で入っていた。すごく揺れて怖かったが、学校自体は大丈夫だった。学校から帰る途中、服部あたりから帰り道には牛や馬が道路にいっぱい死んでいた。だけどとにかく歩け歩けと庄内(豊中市南部)の方まで歩いて帰った。天竺川から神崎川まで、びっくりするぐらい何もなくなっていた。家がみんな焼けて、そこらへん全部焼けて何もない。しばらく歩いていると、「水をください。誰か水を下さい」と男の人のほそい声がした。足を投げ出して土手に座っていた人を見つけ、私は自分が持っていた水筒の水をキャップに入れて3回飲ませてあげた。自分では飲めるような状態ではなかった。「もういいですか?」と聞くと男の人は「ありがとう」といってうつむいた。
そこからしばらくして、ひどいやけどの人が寝かされていた。「お父さんそこにいてはるよ!」と誰かに言われたが、それが自分のお父さんだとは気づかなかった。「お父さん!」と大きな声で呼ぶと、「お父さん、こんなんなってしまった」と父は言った。首はエリマキトカゲのように皮膚が垂れて、耳も赤く、口びるも腫れあがり、髪の毛もない。指の間はカエルの水かきのようになっていた。「痛い痛い…」と父が言った。しかしその次に、父は「次郎(半年前に満州へ兵隊にった兄)に言うなよ」と言い、私は「言わへん!」と大きな声で叫んだ。焼夷弾で父がこんなことになるなら、母も姉もだめだと思った。自分は孤児になってしまうと思った。近くにいる人に、救護所へ連れて行ってほしいといったが、けが人だらけで人手はなかった。元のところに戻ろうとすると、さっきお水を飲ませてあげた男性は亡くなっていた。それを見てびっくりしたが、足を組んでいると思っていたら、太ももから下がなくなっており、さらにびっくりした。
それから母と妹と合流できたが、半分以上泥まみれの状態だった。「お母さんが元気でよかった」と言ったら、家の中に焼夷弾が落ちて、トイレの汲み取り口から父は先に逃げ、母と妹は汲み取り口の扉が飛んで、中から火柱が出てきてそこからは逃げられず、家の塀を破って学校へ逃げたそうだ。妹は痛いとも何も一言も話さなかった。
4 つ上の姉はその日も神崎川近くの軍需工場へ働きに出ていたが、帰ってこなかった。あとから爆弾の落ちた土の下敷きになり、防空壕の 1m 手前で亡くなっていたことを知った。しかしその時は、会社も全部焼夷弾で焼けて、社員がどうなったかはすぐには分からなかった。
工場近くの消防団の人に、「ここの会社に勤めていた姉が夕べ帰って来なかったが」と聞いたが、「あなたの姉だけを探すことはできない、同じような人が大勢いて僕たちも分からない」と言っていた。
6 月 9 日になっても姉は帰ってこなかった。消防団の人に「砂の下からお姉さんみたいな人が見つかったから確認に来てほしい」といわれ、「はい、分かりました」と答えたが、体が一気にガタガタと震えた。その様子を見た近所のおじさんが一緒に行ってくれた。
広場には 45~46 人並んだ亡くなった人を順番に見るよう言われたが怖かった。「あんたは見たらあかん。おっちゃんが見てくる」と言い、15~16 人見たところで、私は遠くから気が付いた。「みっちゃん(姉の名前)や!」と言った。顔は全部紫色。手足がなくなっていることはなくて、五体は揃っていたのは、亡くなった人の中でもありがたいと思わないといけないのかもしれない。見つけた理由は白と水色のギンガムの服。「何縫ってるの?」と聞いたら「うるさいあっち行き!」と怒られた時の服だった。私は消防団の人に「間違いありません。鵜飼満子に間違いありません。私の姉です」と言った。そしたら「これから荼毘(だび)に付すからね」と伝えられた。しばらくして呼ばれると、爆弾で壊れた柱などを天井ぐらいまで積み上げて、その井桁(いげた)の上のトタンに載せられた姉が、下から石油缶いっぱいの石油をかけ火をつけられた。黒い火が赤くなって、私の姉の“火”だと思うと、あれほど悲しいことはない。一番の悲痛な感情だった。でも私が確認してあげないと姉がかわいそうだと見守り続けた。暗くなるまで石の上にずっと座って、火が消えるまで最後まで見ていた。
母と再会すると、父の骨壺をもっていた。「お父さんこんなんなってしまった」と一言。一方、姉の骨は「明日 10 時に取りに来てください」と言われたと伝えた。母は涙一つ見せず、「やはり帰ってこなかったか…」と言っていた。
終戦を迎え、負けたけど良かったと思った。何も怖い思いをしなくて済む。戦争は人を不幸にするだけのもの。人の命の重要さを考えなくなるもの。戦争は絶対にダメ。やっぱり互いを思いやり、人として人間としてお互いを思いやって大切にする気持ちが大事だと思う。
