伊豆の国市
戦争体験記
終戦の年、昭和二十年
新潟県魚沼の農家に生まれた。戦後、集団就職で静岡県清水町の大東紡績へ。当時、労働運動が活発で、サークルや自主活動、組合活動で得がたい経験をするとともに、社会を見る目が養われた。嫁ぎ先が著名な俳人の家で、石田波郷など知識人の来訪も多く、学ぶことが多かったという。近年は市内の平和を考える会や女性の会に属し、「戦争だけはだめだ」と声を上げ続けている。
昭和二十年、この年私は国民学校五年生でした。学校では軍事訓練等で戦争一色でした。新聞やラジオは戦意高揚、勝利することしか報道せず、でした。
八月十五日、私は今でも憶えています。あの抜けるような青い空を。父の手伝いで山の畑へ行く時、日本が敗けたことを聞かされました。竹槍を持って戦う我ら、当然、私たちは皆殺しにされると思いました。
昭和二十年だったか、長兄が特攻隊に志願しました。その時、母が泣いているのを見ました。私は、兄が出征するのに何で泣くのかと思いました。召集令状がきたら「おめでとうございます」と言われ、出征の時は「万歳、ばんざーい」と祝ってもらうのに、と思っていたからです。幸いにも、兄は特攻機に乗らず帰ってきてくれましたが。
この月、薬もない時代に、二歳の妹が「はしか」で亡くなりました。母は、肺炎にならぬよう、鯉の生き血を飲ませたりしていましたが、だめでした。さらに病気で寝ていた祖父も、相次いで亡くなり、悲しい思いをしました。母親はよく墓参りに行き、マクワウリをお供えしていました。お墓の周りでコオロギが鳴いていました。母は、お供えしたマクワウリにかじられた痕があると、コオロギは深く穴を掘って、食べ物を届けてくれるから、コオロギが妹やおじいさんのところにマクワウリを運んでくれるんだと言っていました。
戦争中は、ずっとひどい食糧難が続き、昭和二十年の夏は、ジャガイモだけで命をつなぎました。母はいろいろ工夫してくれましたが、食卓の前で「もう『おいも』はいやだ」と泣いていた弟の姿が忘れられません。母親はどんな思いで、その泣き声を聞いたのでしょうか。
食糧難で、成長期の私は学校での勉強に打ち込むことができず、三時間目の授業ぐらいからは、食べ物のことしか頭にありませんでした。本当に情けないことでした。
戦後も続いていた食糧難は、昭和二五年、朝鮮戦争が始まって、どんどんいろんな食べ物が出回るようになって収まりました。初めて見た羊羹を、「これ何?」とたずねたので、母は羊羹も知らなかったのか、と思ったそうです。
昭和二十年、私たちの家族は新潟、魚沼に住んでいました。米どころの新潟で、なぜ食糧難だったかといえば、米はすべて軍に供出させられたからです。
なんという時代だったのでしょう。戦争は当然と思って疑わず、進んで志願兵となり、民が飢えても戦争最優先で突き進む、今から考えれば恐ろしい時代でした。
この、戦争につながっている体験は、今に至るまで、常に私の頭から離れることはありません。どうしても、次世代に語っておかなければと思います。
子供や孫の代に、また戦争を繰りかえさせないために、私たちの体験を語り継いでいかなければならないと思います。戦争は、すべてを破壊し、命を軽んじ、人の心まで失わせ、何も良いことはないのですから。