日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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広島市

戦争被害の状況

昭和20年8月6日午前8時15分
昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。
この時はアメリカ軍機1機が高高度を通過していっただけであったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
そして、午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾(以下「原爆」という。)が広島に投下されました。
原爆は投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽とも言える灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000度から4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
被爆当日、広島市には約35万人の人がいたと言われており、住民のほか、軍人や周辺町村から作業に動員された人々などがいました。また、その中には朝鮮半島など、海外出身の人たちも含まれていました。

相生橋西詰から東南方向を見る(被爆前):橋の東側に広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)。相生橋の上の軌道に電車が走っている。(提供:広島平和記念資料館)
米軍が撮影した、被爆直後のきのこ雲全景(撮影:米軍 所蔵:米国国立公文書館 提供:広島平和記念資料館)
写真中央は、屋根が落ちて鉄筋コンクリートでできた塔と壁だけになった広島流川教会。昭和20年(1945年)8月9日から15日頃撮影。(撮影:川原四儀氏 提供:広島平和記念資料館)

戦後の復興の歩み

復興と平和記念都市の建設に向けて
被爆後、廃墟と化した広島市の復興は、人口の急減や建物の崩壊などに伴う税収の激減により、遅々として進みませんでした。このため、国に対し、国有地の無償譲渡などを要望しましたが、多くの戦災都市の中で広島市だけに特別な財政的援助を与える余地は国にはありませんでした。
そこで、考え出されたのが、日本国憲法第95条による特別法(=特定の地方公共団体のみに適用される法律)の制定であり、広島市は、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴」となる「平和記念都市」を建設することを目的とした、「広島平和記念都市建設法」の制定を国に働きかけました。
その結果、日本で初めて同条の規定に基づき、住民投票を経て、広島市だけに適用される特別法が、被爆から4年後の昭和24年(1949年)8月6日に施行され、広島市を世界平和へのシンボルとして建設することが国家的事業として位置づけられました。
この法律は、全7条からなる短いものですが、第6条には「広島市の市長は市民と協力して平和記念都市を完成することについて、不断の活動をしなければならない」ことが定められています。
広島市はこの法律を基に、先人たちのたゆまぬ努力と国内外からの温かい支援により、廃墟からの復興を遂げました。

1945年11月18日に再建された胡神社仮社(撮影:林寿麿氏 提供:広島平和記念資料館)
広島護国神社跡で行われた平和復興祭関連行事の様子:写真右側には7日に行われた盆踊り大会のための和太鼓が見える。(撮影:川本俊雄氏 所蔵:アメリカ科学アカデミー 提供:広島平和記念資料館)
広島平和記念都市建設法の住民投票を呼び掛けるポスター(所蔵:広島市公文書館)

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