日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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伊豆の国市

戦争被害の状況

学童集団疎開先となった伊豆長岡温泉
 戦時中の伊豆の国市は、合併前の3町(伊豆長岡・韮山・大仁)で異なる様子を示しています。
温泉観光地であった伊豆長岡地区では、戦争初期は戦時景気を受けて賑わっていました。しかし、戦争が続くと配給制度の開始や、娯楽や慰安に対する排撃によって客足が遠のいてしまいます。戦争終期になると、子どもたちの学童集団疎開先となりましたが、疎開児童への食糧供給が問題となり、苦しい生活が続いたと言われています。
 農業主体の韮山地区では、政府の指令によって多くの農作物を供出していました。学校現場でも同様に、食糧増産の労力不足を補うために、小学生は勉強の傍ら、農地を拡張し、米をはじめとした農作物を生産していました。
多くの工場があった大仁地区では、戦争のために多くの工場で学生による勤労が行われていました。大仁高等女学校の学生は、東京芝浦電機工場などの工場に動員され、学び舎である学校内をも学校工場とされ、戦争終結までわずかな手当で勤労していました。

萩原 清子 氏

戦後の復興の歩み

特産苺の栽培スタート
 戦後復興についても戦時中同様に、地域ごとの特徴を見ることができます。
 伊豆長岡地区では、温泉旅館にて観光促進のための宿泊料の値下げ、浴衣や下駄の貸与を行い、観光客に温泉の気分を満喫させ、温泉客の増加を図りました。その後、観光協会主催で「あやめ祭」を復活させるなど、様々なイベントを企画、かつての賑わいを取り戻そうとしました。
 韮山地区では、終戦による復員・引揚等により農業人口が増加したことで、農作物の生産が増加し、都市部の食糧需要に対応し、収入を増やしました。その後、1951年に水稲栽培の後に出来る、苺の栽培が始まりました。苺栽培は農家の所得増加につながり、とり入れる農家は急増し、やがて韮山における中心的な農作物となりました。
 大仁地区も、韮山地区と同様に農業を中心に復興していきました。農村では、農地改革により小作地が自作地になり、戦争から復員・引揚等により農業生産も向上しました。未開墾地の開放や開拓を推奨するなど、食糧難を解決することが第一と考えられました。