日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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西原町

戦争体験記

10・10空襲

小波津 ミヱ子    1935年(昭和10)生まれ 西原町池田出身    小学校3年時に戦争を体験    小学校、中学校と町内、高校卒業後短大へ入学    短大卒業後、西原町内の幼稚園で教諭を40年務める    退職後は多方面でボランティア活動    戦争体験等を行政区の慰霊の日で講話をする

皆さん平和って何ですか?今平和だと思いますか?今平和ですよね。何不自由なく学校に行く、勉強したり部活をしたり、友達と仲良く遊んだり、おいしいものを食べたり、旅行に行ったりすることが出来ます。それが平和です。
しかしながら今世界のあちらこちらで戦争が起こっています。その中でもウクライナとロシアの戦争が一年あまり続いています。皆さんどう思いますか。今ウクライナの子どもたちは、父さんともはなればなれで暮らしています。しかも勉強も出来なく、あちらこちらに避難しながら、いつ終わるかわからない戦争に巻きこまれ苦しい思いをしていると思います。
私が二年生の頃、今から78年前この沖縄も、日本とアメリカの戦争に巻きこまれ学校に行くことも出来なくなり地域にある砂糖小屋とか木の下で勉強するようになりました。
空襲警報が聞こえてきたら子ども達は防空壕に入って静かにしてなさいと言われ、いとこ達と一緒に壕の中で遊んでいました。最初はそんなに怖いとも思わず遊んでいました。(その時の歌 ♪空襲警報聞こえてきたら今は僕たち小さいから大人の言う事よく聞いて、慌てないで騒がないで落ち着いて入っていましょう防空壕♪)
それから10・10空襲があり、那覇の町に爆弾が落とされ、私達がいる池田からも見えるくらい火が上がって、大騒ぎになりました。池田にも偵察の小さい飛行機が飛んできて、これでおばあさんが一人機銃掃射されました。あの時から本当にもう「飛行機が飛んだら怖い」という思いがありました。
米軍が上陸して来て地上戦がはじまり、昼は壕の中に避難するようになり小さい子ども達を泣かさないようにおやつを食べさせ壕の中でローソクをつけて過ごしました。
夕方、飛行機が飛ばなくなると、おじいちゃんやおばあさん達は食事を作りに家に帰りました。食事と言っても、米やおいしい物はみんな日本兵にあげていました。私達を守ってもらうために。私達はいもと野菜、でんぷん等を食べていました。空襲警報が解除になるまで壕の中に泊まることがありました。
この様にして壕と家を行ったり来たりしている時に、私達の壕の前に模擬大砲が取りつけられ、そこに爆弾が落ちるようになり、私達の壕もきびしい状態が続きました。そこでおじいさんがここはあぶないから、お母さんと一緒におじいさんの弟の壕に行っておきなさいと言われ、私達兄妹4人と母親と5人で避難しました。
糸満に着くまで大変でした。夜通し歩いて照明弾が上るとその後艦砲射撃が頭の上をヒューと飛んで行くので隠れたりしながら、夜通し歩いて着いた時には疲れきって怖さも忘れて眠たくてたまりませんでした。
幸いにも私たちは怪我もなく、かくれる壕もあり、しばらく食べる食料も持ってありましたが、なかには壕を追い出され、行く所もなくどこに避難して良いか途方にくれ小さい子どもをかかえ暗い道を逃げまどう母親がいました。道端で休んでいると艦砲射撃を受けて、母親は両足を取られてしまいました。早く逃げようと思っても逃げることも出来なく、どうしようと思っている間に、もう一度艦砲射撃がきておじいさんの頭に当たりおじいさんは死んでしまいました。そこでお母さんは足がなくなっているが話はできるので、自分はもう歩けないので、5才と7才の子どもを15才のおばさんにたくして、子ども達をお願いしますと頼みました。しかし、5才と7才の兄弟は生きているお母さんを置いて逃げるのに大変な思いをしたと思います。
私達は大きい壕に避難していました。壕の中の子ども達はいつも静かにしなさいと言われていました。
母親達4人で、艦砲射撃が静かになった時、民家に行って食事を作ってきてくれて、一日1回は食べられました。
こんな生活も二ヶ月ぐらい続いたでしょうか、艦砲射撃が激しくなり大人達の間ではこの壕も移らないと、という話を聞いて自分も心配になってきました。大人達の間ではもうどこに行っても同じだ、死ぬならみんな一緒が良いとあきらめている時、逃げないことにしました。
壕入口にビラが置かれていて取って見ると、(皆さん助けてあげるから出てきて下さい)と書かれていました。でもこんな言っても殺されるかもしれないとためらってましたが、おじいさんが私たちは死んでもいいから子ども達をと言って、壕から出て行きました。子どもたちを助けてほしいと願っていました。私達の壕にはたくさんの人が避難していたが、避難民が出てきて皆助けられました。米兵たちは親切でした。たくさんの避難民に水を飲ませたり、顔を洗わせたりして、それからチョコレートも配っていました。
トラックに乗せて捕虜収容所に連れて行かれ糸満兼城潮平、久志村の山を開墾した所など転々としていました。
戦争が終わって生きのびてきたものの、子どもや老人は栄養失調、怪我のために次々と亡くなり、毎日誰かが亡くなりました。
5年生になってやっと転々としながら自分の故郷、池田に帰って来ました。幸いにして私たちの家族は怪我もなく栄養失調もすることなく生きのびていました。
防営隊に行っているおじさんはとうとう帰って来ませんでした。
「命どぅ宝」ということを聞いたことはありますか?今皆さんは何不自由なく生活出来ていますが戦争になるとそんな生活がすぐに出来なくなります。どうか皆さんは戦争のない世の中にしてください。ほんとに戦争がないことを祈っています。