北中城村
戦争体験記
巡査の言葉をきっかけに南へ向かう
(巡査の言葉をきっかけに南へ向かう)
1945(昭和20)年に入ると空襲が激しくなりました。そのころから、集落(渡口)の後ろにあった墓に避難するようになりました。アメリカの偵察機が飛ばない時間帯に走って家に戻り、食事を作って墓に運びました。
そのような生活を続けているうちに、4月1日の米軍上陸の日を迎えました。その日、島袋方面から見知らぬ巡査が二人来て「敵は上陸しているので首里署管内、西原村方面に避難しなさい」と言われました。それから、「どうしたらいいだろうか」と大騒動になりました。私たちは渡口に残ることも考えましたが、巡査の言葉を聞いて、とりあえず私の実家のある西原村に向かおうということにしました。
4月2日の夕方、渡口を出ました。
(西原村池田の墓で過ごす)
私たちは、最初に実家の墓のある西原村小波津に行きましたが、すでに親戚が集まっていて墓はいっぱいになっていたため、私の兄があちらこちら駆け回って、池田集落の空いていたお墓を探してくれました。この墓に20日ほどいました。
次第に空襲が激しくなりました。中城湾には軍艦がいっぱいで、そこからばんばん弾が飛んできました。
そのため私たちは、家族や西原村の親戚20人余りで大里村(現南城市)に向かいました。
(のどかだった大里村での避難生活)
西原村から大里村には一晩で着きました。大里村には沖縄県農会(現農業協同組合)で働いていた夫の部下たちがいて、いろいろとお世話をしてくれました。当時の大里村はとてものどかで戦争の気分はまったくありませんでした。馬車ムッチャー(馬車引き)が野良歌を歌って作業しているというような感じです。
大里村の大城で1か月ほど過ごしましたが、ちゃんとした壕に入れなかったので、空いている岩陰をみつけてそれぞれ分散して入っていました。大里村にいる間、私の母は急性肺炎を再発して亡くなり、きょうだいで穴を掘って埋葬しました。
のどかだった大里村も次第に危険な状況となっていき、飛行機が飛ばない間に食事を作り、あわてて岩陰に戻って食べました。
岩陰にはススキをかぶせてありました。それから、私たちはさらに南に向かうことにしました。5月中ごろのことだと思います。
(大雨の中の避難生活)
私たちは、玉城村(現南城市)の前川ガンガラーというところに、大里村から一晩かけて歩いていきました。
私たちが避難している場所の奥の方は軍隊が利用していて、私たちは入り口付近にいました。連日の大雨で水がたまってきたので、姑と息子を上の方に行かせて、私は膝小僧まで水につかっているような状態でした。
(姑のおかげで命拾いをする)
前川ガンガラーに10日ほどいて、具志頭村の与座(現八重瀬町)に向かいました。避難の途中、砲撃がとても激しくなりました。その時に背負っていた姑が、用を足したいから「ウルセー(下して)」と言って聞かないので、私は姑を下し、急いで用を足してもらいました。
すると、近くに砲弾が落ち、私たちは泥だらけになりましたが、幸いにも誰一人けがをしませんでした。ですが、私たちよりも一足先に行った人たちは砲撃を受けてみんな亡くなっていました。「オバーのおかげで助かったよ」と、みんなで感謝しました。
(製糖工場の窯の中に隠れる)
与座から、さらに喜屋武村(現糸満市)に着いて福地の製糖工場に入りました。すでにたくさんの人たちがいましたが、中から渡口の知り合いに声をかけられ、私たちも一緒に入れてもらいました。ここで10日ほど過ごしました。
そのころは戦闘がかなり激しく、昼間は一歩も外に出られませんでした。飛行機の音が聞こえると、窯の中に入ってうごきませんでした。周りの海は四方八方敵艦が浮いていて、艦砲もとても激しかったのです。トンボという偵察機が2、3回旋回して、パチパチっとすると、すぐに弾が飛んできました。トンボの恐怖は今でも忘れられません。
一緒に逃げていた人はちはばらばらになっていました。私の父は、少し離れた別の壕で栄養失調で亡くなりました。
(捕虜になる)
6月19日ごろ、米軍の捕虜になりました。一緒に避難していた渡口のハワイ帰りのおじいさんが真っ先に手をあげて米兵の前に出て行きました。そして、通訳になって、私たちの持ち物も全部持たせてくれるように交渉してくれました。最初は殺されると思いましたが、おじいさんが落ち着いて交渉していたので、大丈夫だろうと少しずつ安心していました。
それからアメリカのトラックに乗せられて、豊見城村の伊良波まで行きました。その後、野嵩(現宜野湾市)、安慶田(現沖縄市)の収容所へ移動しましたが、8月15日ごろに姑が栄養失調で亡くなりました。
