日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

  1. ホーム
  2. 会員
  3. 被爆80周年事業「未来につなぐ戦争の記憶」
  4. 沖縄県
  5. 北谷町

北谷町

戦争体験記

避難から帰村13歳の戦争体験

與儀 正仁(よぎ せいじん)氏(昭和7年 91歳)北谷村砂辺生まれ。

砂辺は西海岸へ面し馬場があり後ろには、小高い森があり軽便鉄道が走り国民学校があり景観がよく8景にも推薦された地域でした。
家族は、祖父、祖母、父(防衛隊)、母、男5名兄弟(長兄(鉄血勤皇隊)、次兄(鉄血勤皇隊)、三男(本人)、四男、五男、叔父、叔母、叔父の子を合わせた16名家族

 1944年10月10日、北谷国民学校5年生、兄に連れられ建設中の中飛行場、現在の嘉手納飛行場を望める丘に登った。友軍(日本軍)と思った機体は米軍の星のマークが見えた。中飛行場を爆撃した。日本兵が「敵機襲来!」と声を上げた。怖かった、足がすくんだ。兄に引っ張られ自宅の壕に逃げ込んだ。
住民、子ども達も動員されて建設した中飛行場が爆撃を受けた。年が明けた頃から中飛行場を標的とする空襲が続いた。私たちを含む砂辺の人たちは、クマヤーガマに潜む生活が多くなった。

1945年3月27日の午後、日本兵隊がクマヤーガマにやって来て米軍が砂辺海岸から上陸するから早く逃げろと言われた。
住民の中には海岸にいるのは日本軍だ、日本軍が守ってくれるから大丈夫、神風が吹き米軍の船を沈めるから避難する必要はないという人もいたが、私達は、北谷村の指定避難場所の羽地(現在の名護市羽地)に向け砂辺から嘉手納の久得山へ逃げた艦砲弾が昼夜関係なく撃ち込まれ夜は照明弾で真っ暗な夜が昼間のように明るく照らされる。艦砲弾でやられた日本軍の兵隊は、体中がバラバラになり恐ろしかった。

避難の途中で4男と叔母さんの子が逸れてしまい母親が、錯乱状態にそこからは嘉手納と砂辺とが燃えているのが見えた。気が付くと母親の姿が見えなくなった4男を探しに戻ったと思った。私たちは叔父さんと一緒に出発した。雨も降り艦砲射撃も激しくなりで63名から何家族か逸れていった。途中で亡くなった親戚を穴を掘り野犬が掘り返さないよう石を集め顔や頭に石を乗せて埋葬した。今でもそのことが夢に出ることがある。

私たち家族は、散り散りになりながら7日ごろ、避難場所の羽地に着いた。その時もらったおにぎりが美味しかった。今でもその味は、忘れられない。
それから3か月以上北部の山中を逃げ惑った。山原の山の中では、食べ物がなく非常に苦労した。食べられる物は何でも食べた。
米軍が夜襲にあい逃げ出すときに食料(缶詰)を埋めて逃げる。その様子を見つけると缶詰を掘り返しに出かけ食料を確保し飢えを凌いだ。

7月には、久志村の大川へたどり着いた。その頃には、「亡くなっている人を見ても何の感情もなかった。かわいそうだとも思わなかった。」
8月に入り、米軍トラックが来て保護され宜野座収容所へ移動した。そこで母親と弟、親戚と再会することができた皆で泣いて喜んだ。

宜野座で知り合いが野戦用のテントを分け私たちを入れてくれたが食べ物がなく砂辺まで食料を探しに行った。海に行き流れ着いた缶詰や芋等を持ち帰ることができた。
せっかく戦争から逃れ助かったのに強姦されたり、殺される人もいた。母は、夫や長男の帰りを待ち宜野座病院や久志の収容所まで弟をおぶり探しに出かけていたが二度と会うことはできなかった。

1947(昭和22)年宜野座から北谷村桃原に帰村が許可され北谷村へ戻ることができた。先遣隊のおじさん達が規格住宅を建てていた。母は、嘉手納基地で北谷の人達と集団で農業をし、農作物を作り私たちを育てた。
私は北谷中学校の7年生に進級、その後、高校へ受かったが、生活は苦しく嘉手納基地のガーデンボーイ等をして働いた。

1954(昭和29)年に砂辺が米軍より解放され故郷砂辺に戻ることができた。私は、1955(昭和30)年に結婚し1男、3女をもうけた。

戦争はやってもいけない。体験してもいけない。戦争は殺し合い、そこに悲惨とか残虐とかない。最初は人が亡くなっているのを見ると怖かったが、だんだん麻痺して何も思わなくなる。 
戦争体験を語れない人、語りたがらない人も多い、だが、私は、沖縄戦で起きたことが、無かったことにされてしまうのではないのか、教訓として残していかなければならないと思う。
次世代の子ども達に言いたいことは、学生時代は、短い、有意義に過ごし皆で平和について考え、友達をたくさんつくり、いじめをなくし、世界のことを学んでほしい。

與儀 正仁 氏