日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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読谷村

戦争体験記

チビチリガマでの自決

上原 豊子 氏

昭和11(1936)年、読谷村字波平出身。沖縄戦、米軍上陸、読谷村字波平のチビチリガマに家族とともに避難。「集団自決」で多くの住民が命を落としたチビチリガマでの生存者として、その戦争体験を『読谷村史「戦時記録」』に寄せたほか、テレビや新聞等多くの取材依頼に対応し、戦争の悲惨さと平和の大切さを広く伝えてきました。令和6(2024)年逝去。

私が覚えているのはチビチリガマでの「自決」、そこからなんです。おそらく「自決」が始まる前だと思いますが、アメリカ兵がガマの中に入ってきたんです。日系二世だったのか、紙に「出てきなさい、何もしません」というようなことを書いてありました。
その後、何か「やられたー!」という声が聞こえてきました。そしたら、誰かが子どもを寝かせて、布団を山積みにして火をつけたんです。煙が充満して、視界がすごく悪くなりました。そのとき私、おしっこがしたくなって、母にそう言うと「布にやりなさい」と言われたんです。家族でそのおしっこを浸した布で口と鼻を抑えて、煙を吸い込まないようにしました。
その時、どこかの親子がアメリカーに捕まりたくないと思ったのか、まるで蟹が岩の奥へ入っていくように、ガマの奥へと姿を消していきました。
ガマの入口から、ちょっと奥のほうで布団が燃えていて、私たちはそこからすこし奥に入った右下に居ました。私たちのすぐ近くから、「痛い、痛い!」という悲鳴が聞こえました。春というきれいなお姉さんがいたんですが、その人の声で、たぶんお母さんに殺されたんだと思います。私が見た時には、春さんの目の見えないお兄さんがお母さんに馬乗りされて、何度も何度も包丁で刺されていました。
火をつけたガマの中はもうもうたる煙で、いろんな悲鳴が聞こえて、表現できませんけど、私はとにかく苦しくて、死と戦っていたということしか覚えていません。
看護婦の前にたくさんの人が列をなして並んでいて、この人たちは毒を注射してもらうのを待っていました。私の兄もその列に並んだので、私も行ったほうがいいのかな、でも薬(毒)はなくなるんじゃないかなとも思いました。非常に複雑な気持ちでいると、結局兄は毒が足りないからと看護婦に帰されてきていました。
私たち家族がガマを出るきっかけになったのは、私は覚えていないのですが、アメリカ軍が上陸する前に、父がチビチリガマにやってきて、母に言ったそうです。「この戦いくさは必ず負けるから、死ぬことだけはするな。自分は草むらを這ってでも帰ってきて、みんなに会いに来るからな。それまで、何としてでも子ども達を守ってくれ」と父は母に頼んだそうです。母はその時の父との約束を守るため、私たちを連れてガマを出たのです。たぶん、私たち家族が一番最初にガマを出たと思います。けれども、父は母との約束を守ることができず、戦死してしまいました。
ガマを出た私たちは、米軍の大きな車に乗せられて、そこで缶詰め類が配られました。
私がもらったのはチーズの入った缶詰で、私はチーズを石鹸だと勘違いして「この石鹸を食べさせて、私たちを殺すつもりだね」と思いましたが、でも食べてみるとおいしくて、全部食べました。
車はどんどん海に向かっていて「海に捨てられるんだ」と思いました。でも結局は海岸に捕虜になった人々が集められているだけでした。
チビチリガマでの体験は本当に悲惨なものでしたが、しかし生き残った今、チビチリがあったからこそ空襲から身を隠すこともでき、助かったんだなと感謝もしているんです。

※2002年、読谷村役場発行『読谷村史 第五巻資料編4 戦時記録 上巻』p482-483より転載。