石垣市
戦争体験記
悲惨、露天焼きで父を葬る
(人物紹介)
大浜さんは当時42歳、町内会長をしていました。戦局の激化により避難命令が下され、避難先でマラリアが猛威をふるうと、罹患者の看病にあたりました。住民の避難が解かれた後は、山中でマラリアに苦しんでいる人を背負って村へ連れ帰り、山中で亡くなった方を戸板に乗せて火葬場まで担ぎ込むなど、救援活動に携わりました。
町内会長として
もう、今となっては年代もはっきりしないが、戦時中私は4町内の町内会長であった。一度、白保の特設警備隊に召集されたが、召集を受けたその日、隊長から召集を解除するといわれた。健康上の理由からであった。
それからは、町内会長として重責をになわされた。若い者は兵隊に、壮年男子は召集や徴用にかり出されていた当時、町内の一切のことは、ほとんど私がかかりきりとなった。
私の家の近くに宮田隊が駐屯していた。その頃、私は家に馬を2頭かっていたが、ある日のこと三男坊を連れ、2頭の馬をひいて草刈りに出掛けたとき、空襲に出会った。これが石垣島での最初の空襲だったのだ。「さあ、大変だ、馬が目印になっては危ない」と思い、あっちへ連れ、こっちへ隠しで大いに慌てたことがあるが、幸いに無事であった。
このこともあって、私は宮田隊に1頭の馬を寄附すると申し出た。馬舎の兵隊が「隊長にきいてみる」といっていたが、間もなくして隊長から呼び出しがあった。「一体、君はどういうつもりで軍に馬を供出しようとするのか」といわれた。私は「この馬は乗馬に適しているので、必要であったら使っていただきたいと思って申し出ました」といったら、「軍は、民間人からいちいちものをもらう必要はない。軍を何と思っているのか」と逆に怒鳴られたことがある。
その後しばらくして、軍が借り賃を支払って私の馬を借りるというかたちで落ち着いた。当時の金で、かなり高額だったように記憶している。
徴用で苦労
当時は徴用というのがあって、どこの家でも召集された以外の男は軍の仕事につかわれていた。馬車もろとも徴用される人もいたが、私は町内会長としてその徴用役の責任もおしつけられていた。毎日の出づらで、めいめいの労働状態が軍に報告される。その結果、成績不良の者は西表の稲葉地区にまわされた。折あしく大雨が降って大洪水がおこり、さんざんひどい目にあったと、あとで彼らから聞かされた。その人たちは、私をうらんでいたようだが、軍の命令は絶対であったから、私ではどうすることもできなかったのである。
ある日のこと(多分、昭和20年6月頃)、私は他の町内会長たちと共に旅団本部に呼び出された。今でこそ口に出して言えるが、当時は絶対秘密とされ厳重に口どめされた。「敵は間違いなく上陸するはずだ。もし上陸してきたら、市街地を敵に占領させぬよう、その時に消防団、警防団がいっせいに火をつけるよう」といわれたことがある。
マラリアと闘う
戦局は次第に激しくなり、住民に避難命令が出された。各字の住民は決められた場所へ避難を開始した。私ども石垣4町内は外山田であったが、ほとんど女、子供ばかりの避難騒ぎで、私は目の回るような忙しさであった。その頃、部落会長をしておられた大浜孫伴さんなどと「もし敵が上陸してきたら、このツカラツキ山方面からも来るはずで、そうなったらどういうようにして住民は逃げ出せるか…」などと真剣に話し合ったことがある。
住民が、外山田の山中に避難して1週間たった頃、マラリアが恐ろしい勢いで住民におそいかかった。ほとんど、女や年寄り子供たちだけの世帯であったので、私はあっちへ行き、こっちへ行きして走り回った。キニーネも探してこなければならない。高熱も下げてあげねばならない。ちょうどバギナ(平地原)一帯に島芭蕉がいっぱいはえていたので、私は片っ端からそれを切り倒して看病に役立てた。
私の家では83歳の養父と7歳の四男坊が、マラリアにかかった。そうこうしているうちに、住民の避難が解かれて村へ帰ってよいということになった。山中で苦しんでいるのはこうした年寄りや女、子供たちである。私も責任上、捨てて置けず、父や子供は家内にまかせきりにして、何人かを背中に背負って山から村へつれ帰ったりした。
なかには、山中で亡くなった方もあって一度はやっとのことで人を頼み、戸板に乗せて火葬場にかつぎこんだが、余りの疲れから途中でおろして、一休みも二休みもしなければならなかった。昔からガンダラゴー(龕)は一度かついだら下に降ろしていけないといわれているのに、どうしようもないことであった。
父を露天焼きに
私の養父は、看病の甲斐もなくとうとう息を引きとった。四男坊が危ないと思っていたが、養父が亡くなってしまったのである。当時の事情が事情であっただけに、頼られる人もなかなかいない。
その頃、火葬場の係りをしていた田場さんに火葬をよろしくとお願いした。しかし、田場さんが言うには、「毎日7、8人の死人を受け付けてどうしようもない状態です。先着順にしかできないですよ。露天焼きなら明日できます」とのこと。言われればもっともなことである。順番を待つ訳にもいかない。夏の暑い盛りで、死体はどんどん腐敗していく。しのびないことではあったが、仕方なく私は同意した。
火葬場では、薪を積み重ね、その上に4人の死体が並べられ火がつけられた。一緒に焼かれた死体はどこの誰であったかは今は覚えていないが、確か1人はどこかの娘さんで機銃でやられたとのことだった。あたりをみると、死体がごろごろと並べられていた。
火はパチ、パチと音を立て、見る見るうちに?となって勢いよく燃え上がった。死体が火の勢いにつれて動く。あるいは反転する。そのさまはとうてい口で言いあらわせるものではなかった。地獄もかくやと思うばかりで、目をそむける程のむごさそのものに「あゝ、お父さん許して下さい、この親不孝を許して下さい」と私は唇を?みしめて祈るばかりだった。涙がとめどもなく頬を伝わった。いかに事情が事情であったとはいえ、こんなことがあってもいいものか…と、私は軍をうらみ、戦争をのろった。
誰もが体験したことのないこのたびの戦争のむごさ、今ではとても考えられない難儀苦労のさまざま…。それにつけても養父を露天焼きにしたことは終生忘れることはできない。
「市民の戦時・戦後体験記録 第2集 ―あのころわたしはー」収録
「悲惨、露天焼きで父を葬る」 大浜賢仁氏による体験記録
