宜野湾市
戦争体験記
宜野湾から糸満の壕へ
宜野湾の嘉数生まれ・嘉数育ち。沖縄戦当時6歳で、小学校に入学予定でしたが、米軍が沖縄本島に上陸してきたため家族で南部に避難しました。毒ガスによって声が出なくなった時期もありましたが、戦禍を生き延び、若い世代へ戦争の悲惨さを伝えています。
当時6歳で、小学校に入学する予定でしたが、4月1日に米軍が読谷・北谷から沖縄本島に上陸したので、学校には全然行けませんでした。小学校1年生ということで、鞄や洋服も全て買いそろえてあったのに、1日に米軍が上陸したので新入生の服装で避難することになりました。
4月1日頃には宜野湾の喜友名集落の端まで米軍が来ており、3日頃から僕の住んでいる嘉数にも弾が飛んでくるようになりました。親父が、住宅が4、5軒ほど焼けたと言っていましたが、そこから戦争が激しくなっていき、嘉数は激戦にみまわれました。
4月2日、みんなで嘉数集落の外れにある「チヂフチャーガマ」という自然洞窟に避難していると、日本軍から「この嘉数の地域にある壕は沖縄を守るために兵隊が使うので、みなさんは南部の方に移ってください」と言われ、3日あたりから移動が始まりました。僕の親父はなぜか分からないが、自分の家、嘉数が焼けるのを確認してから南部へ逃げました。逃げるときに普通の道を歩いたら道に迷うからと、戦前、那覇から嘉手納まで通っていた軽便鉄道の線路を歩いて那覇伝いに移動しました。
移動するときは、味噌、塩、砂糖、でんぷん、鰹節、この5つを持って逃げました。特に味噌は火傷をしたときに水膨れ、化膿を防止します。逃げているときは、真っ赤に焼けた破片がしょっちゅう飛んできます。これが回転しながら飛んでくるので、人間がこれにあたると皮膚がえぐられてしまいます。こういうのを避けながら逃げていました。戦争によって、沖縄の住人は4人に1人が亡くなったといいますが、この激しい破片によってやられた人も多いのではないかと思います。
南部に行くには、豊見城の真玉橋という橋を渡らないといけませんが、道が大体2メートル40センチぐらいですから、もうあっちこっちに人が死んでいました。兵隊も死んでいました。僕は身長が低かったので、死んだ人間を跨がれないわけです。だから死んだ人の大きく膨れたお腹をポンポン踏んで移動しました。何本も行く道があるわけではないですから、住人が殺到したり、兵隊が殺到した場所には米軍が機銃攻撃をするため、人がいっぱい死んでいました。
中には、お母さんが赤ちゃんをおぶっていましたが首がありませんでした。首の無い赤ちゃんを背負って歩くお母さんを、今も鮮明に覚えています。お母さん自体も、まだ赤ちゃんが亡くなっていることに気づいていない。でも誰も注意することはありませんでした。もう極限状態に陥っていますから、人をかまっている暇はありませんでした。相当な人が亡くなっていました。僕はそこで初めて、道端で死んでいる人とかを見ました。また、すでにお母さんは亡くなっているのに、亡くなっているお母さんのお乳をしゃぶっている子もいました。お父さんやお母さんかな。おじいさんだったかもしれないが、亡くなっているところで、しょんぼり座っている子もいました。あの光景は見られなかったですね、あの光景は・・・。
僕らは糸満の真栄里にある壕に避難していました。6月18日に米軍のバックナー中将がやられたので、あの時から米軍の攻撃は激しく、ボンボンと弾を打ち込んでおり、日本兵の怪我も多かったですね。
僕らが避難している壕に怪我をした5名の日本兵が入ってきました。鉄砲は持っていませんでしたが、怪我をしていたため日本刀を杖替わりにしていました。
僕の1番下の2歳の妹が泣いていると、日本兵が「おい、泣かすな。ここは今、米兵が近くまできているから、泣かしちゃ米兵に見つかる。」と言いました。まだ小さい子どもですから、知らない人が入ってくるとやはり泣きますよね。「娘をよこせ」と言われ、この子がやられると察した親父が、「どうせこの戦争を生きる望みは無いですから、どうぞ家族いっしょにここでやってください」と。そしたら僕らはですね、まだ弾も飛んでくる壕の入口で家族5名ひざまずかされました。残りの家族はまだ壕の中にいるのに、親父がいったもんですから。刀を持っていた日本兵が恐らく首をちょん切る気だったと思います。そしたら、斥候に行っていた日本兵が帰ってきて「隊長、ここはもう危ないです。米兵がすぐ近くに来ているからもっと南に下がらないと」といい、隊長が刀をパチンと中にいれて、日本兵は壕から出ていきました。
僕らは翌日の19日の11時頃に壕の中に毒ガスをまかれました。親父は子どもたち4名全員をタオルや洋服、持っているもので口を塞いでくれたのですが、僕はあまりにも苦しいから跳ね除けたんです。親父が「もうみんな外に出よう」と。ここで死ぬよりは、みんなで外に出て死のうということで、どこからもってきたのか分かりませんが、親父が白い布に棒切れをかざして、親父を先頭に壕を出ました。僕は毒ガスをまかれた時に跳ね除けたせいで、捕虜になる時間までに喉をやられて、捕虜になって半年ぐらいは声が出ませんでした。
若い人たちには、平和学習を通して沖縄戦で多くの尊い命、それから破壊、戦争の怖さ、このような戦争を二度と起こさないように、世界が平和でどこの人も真に日常生活を営むことができるような世界を、構築していただきたい。特に我々戦争体験者としては、いかに戦争の愚かさを伝えるのが経験者の務めだと思います。体験者の苦しみを今の若い人たちにリアルに伝え、そういう戦争の醜さ、怖さ、破壊など、二度と起こしてはならないという意識を高めることができたら、思い残すことはありません。
証言映像(宜野湾市公式YouTube)