日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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那覇市

戦争体験記

体験記

片岡 千代 氏

[人物紹介]
1944年当時、片岡千代さんは14歳、沖縄県立第二高等女学校の2年生。10月10日の米軍による那覇市への空襲、いわゆる10・10空襲を経験。家族と共に北部への避難、熊本への疎開を経て、終戦後、那覇に戻る。

[体験記]
私たち家族は、久茂地に住む、松山国民学校の元校長である大城先生宅に寄宿していた。
沖縄県立第二高等女学校2年生。本来なら、勉学に勤しんでいる年齢だが、当時は沖縄にも戦争の足跡が近づいており、私たち学生は既に授業はなく、高射砲陣地の構築作業に駆り出されていた。
 10月10日、その日の朝も、陣地に向かうための準備をしていると、突然、空襲警報が鳴り響いた。外を見ると、小禄方面、飛行場や港のある地域から煙が上がっている。身の危険を感じ、家族と共に避難することを決意した。近くにある九州配電沖縄支店に勤務していた父は既に会社へ出社していたため、自宅にいるのは父を除く家族5名。自宅には簡易的な防空壕が掘られていたが、あまりに近すぎる場所での空襲に、この場所は危険と判断。事前に空襲時の避難場所として家族で決めていた、母の実家がある古島へ避難することにした。空襲時に備え、多少の荷物は既に古島へ移していたため、私は簡単な荷物を持ち、母は2歳の弟善進を負ぶり、5歳の妹信子の手を引き、9歳の妹和子と共に出発した。
 まだ幼い善進、信子を連れての避難には時間を要した。崇元寺に差し掛かったところで私はいったん家族と別れ、ひとり先に古島を目指すことにした。裏手の小高い丘で騎兵隊の馬が激しく鳴き声を上げていたのを覚えている。多くの人が右往左往して逃げ惑う姿に驚いていたのだろう。
ひとりでの避難途中、米軍機が低空で機銃掃射をしながら飛ぶ姿を何度も目撃した。機銃掃射に襲われそうになったため、その度に溝に隠れながら慎重に進んだ。命からがらやっとの思いで古島についた時には既に夕刻。祖母との再会を果たし、家族とは崇元寺で別れたことを話すと、祖母は残りの家族のことを心配していた。崇元寺付近に爆弾が落ちるのを目撃していたそうだ。私はいてもたってもいられず、荷物を置き、家族を捜すために再び崇元寺に引き返すことにした。途中、安里の小高い丘に登ると那覇方面が火の海と化しているのが見えた。
 両親と再会したのは、日が暮れたころの真嘉比の墓地だった。緊張の糸が切れて3人で抱き合い泣き崩れた。後から聞くと、どうやら私と母とはすれ違っていたようで、私が崇元寺へ再び出発した後、母と弟妹は無事に古島に着いていたのだ。私の安否を心配した母は弟妹を古島に残し、私を捜すために再び崇元寺へ出発。道中、父と再会し、真嘉比の墓地で私を見つけることができたそうだ。
 その日の夜は、祖母宅で過ごした。食べ物を口にしたかは覚えていない。祖母宅は大きな屋敷だったため、軍人たちも寝泊まりしていた。一番座、二番座は軍人たちが使用していたため、私たち一家は台所でニクブク(藁で編んだ敷物)を敷いて寝た。善進は昼間の空襲を思い出し「パンパンイヤー、パンパンイヤー」と泣いていた。
 翌日、軍人たちが「ここは敵が上陸して戦場となる、山原に逃げた方がいい」と言うので、一家で山原に避難することにした。周辺の家から馬車を借り、久志村(現名護市)に向けて出発した。金武に差し掛かったところで、和子の足に血豆ができ、歩けなくなってしまったため、久志村に行くことを諦めた。馬車から強制的に降ろされたと記憶している。
 金武では、民家を借りて、納屋のようなところに住んだ。家主は優しい方で、おにぎりやヤギ汁を振る舞ってくれた。だが、都会育ちの私たち一家は、田舎での暮らしに馴染めず、結局、1か月程で那覇に戻ることにした。
 久茂地の家は空襲で全焼していたため、母の従兄弟が住む首里山川へ向かった。母の従兄弟は巡査として働いており、その息子は師範学校の生徒だったため、ふたりの持つ情報も頼りにしてのことだった。ふたりの情報をもとに、県外への疎開が最善の策だと判断した。
 疎開船への乗船が決まったのは突然のことだった。ある日、母が港へ様子を見に行ったところ、今日なら乗船できるとの情報を得て、急遽家族全員で港へ向かった。港は疎開を希望する人であふれかえっていた。混雑の中、家族は父とはぐれてしまい、父は先に船に乗ってしまっていた。父を見失った妹たちは置いて行かれたと思い泣いていた。幸い、私たちは陸軍の船舶部隊の船に乗せてもらうことができた。船は魚雷を避けるために蛇行しながらの航海となったため、到着には数日かかった。船内の食事は非常に少なく、私は栄養失調となり、下船時には歩くこともままならない状態であった。
 船が着岸したのは、熊本県の三角(現宇城市)で、そこから温泉街である山鹿へ移動、護国山金剛乗寺が疎開先であった。ここでは、父が電気工として働き、その報酬として食料を頂いて生活していた。比較的恵まれた生活を送れたと思う。あまり苦しかった記憶はない。
 約1年半の生活の後、昭和21年2月、沖縄に帰還。美里村(現沖縄市)のインヌミヤードゥイに着いた。家はなかったが、終戦後も古島に住み続けた。
 私はこれまで、他人に戦争のことは口外せずにいた。もちろん家族にも。だが、年を重ね、同年代の方が「語り部」として活動している姿を見たとき、感銘を受けた。これからを生きる若い世代へ戦争の悲惨さを伝えることで、さらなる平和な世界が創造されるのならば、私も体験談を伝えることをもって、平和希求の想いを発信し続けたい。

片岡 千代 氏