日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

  1. ホーム
  2. 会員
  3. 被爆80周年事業「未来につなぐ戦争の記憶」
  4. 鹿児島県
  5. 大崎町

大崎町

戦争体験記

5年生になる前の春休

昭和10年生まれ 男性(大崎町教育委員会では平成26年に戦争体験者の方々から聴き取った話をまとめてデータに残しています)

5年生になる前の春休みくらいだったと思います。朝方、庭掃除をしていると西の方の空が騒がしいのです。よく見ると上空を白銀の飛行機が空高くゆっくり飛んでいました。それを目がけて、どこから撃っているのか高射砲が伸びていくが、白銀の飛行機まではとても届く様子ではないのです。下方で高射砲の弾が破裂するのを見下ろしながら、飛行機は悠々と高隈山系を越えて西の方へ飛んでゆこうとしている様子でした。
視線をその少し下に移すと、そこには敵か味方かわからない大きなカラスぐらいに見える戦闘機が空中戦をやっていました。 そのうちの一機が煙を吐いて切り切り舞をしながら落ちていく様子が見えました。
「いよいよかな!」 そう思いながら、屋敷内の木陰で時を過ごしていました。それからどの位、過ぎたのか憶えていません。
突如、頭の上でバタバタバタ…ダッダッダッダ…屋敷内の木竹をなぎ倒すような勢いと轟音をたてて、飛行機が飛んでいきました。
怖くて腰を抜かしてしまいました。一体何が起きたのかわかりませんでした。しばらくは過ぎたのでしょうか。怖くて家の中に帰ろうとすると家の周りが騒がしいのです。隣屋敷の茅葺きの家から火が出て、煙が高く上がっていました。いつの間に来たのか、近くに住んでいる叔父が自分家の茅葺きの家の棟に上がって、馬乗りにまたがっていました。母親から「井戸から水を汲んで来い」と黄色い声で指示が出ました。兄貴と二人で井戸水を何度も汲み上げて運びました。夢中でした。気がついてみると、家の周りに3~4人の大人たち集まっていました。そのうちに西隣の家からも煙が登っていました。屋根上の叔父は、長い竿竹を持って(先に布きれを巻きつけて)両隣から飛んでくる火の粉を打ち消していました。屋根上の叔父が突然大声で「マサンジ(政義という人の通称)、いんきょん(隠居の)のっば(軒端)に火がついた」と叫んでいました。マサンジは別棟の隠居へ走って逃げました。 煙の出ている平木をはがして、もみ消しているようでした。 
私はウロウロするばかり。結局、自分家は焼けずにすんだが、隣三軒は丸焼けになりまし。遠い昔の悪夢です。
後で考えたり、人から聞いたりしたことと照らし合わせると、その日は昭和20年3月18日でした。鹿児島の初空襲の日でもあります。 
白銀の飛行機は偵察のためのB29でした。叔父は兵隊として戦地に行っていましたが、ちょうど兵役の合間でした。

西井俣集落にある自宅

昭和11年生まれ 男性(大崎町教育委員会では平成26年に戦争体験者の方々から聴き取った話をまとめてデータに残しています)

西井俣集落にある自宅が部隊の事務所になっていました。金丸陣地―72部隊 積部隊とは別の部隊で、昭和19年よりも前から金丸陣地の大砲打の担当として配置されていたそうです。陣地には砲台・弾薬庫などがあった。陣地を築いたのは、72部隊とは別の部隊だった。駐屯していたのは大尉中尉クラス以下で、それ以上の方はたまにサイドカーで来ていました。
スパイがきたことがありました。将校が西迫まで行って捕まえたのを覚えています。
自宅の畑の中に土を盛り上げて高射砲を設置していましたが、敵機まではとても届いていませんでした。上空で日本軍の飛行機と米軍の飛行機が空中戦をしていましが、いつも日本軍の飛行機がやられていました。日本の飛行機の燃料タンクはベニア製でした。ベニア製のタンクが落ちてきてその中の油をとりに兵隊さんたちがビンを持って集まっていました。飛行機はどこかに落ちていったが、どこに落ちたのかは分かりません。
西井俣では空襲で亡くなった人はいなかったが、岡別府集落の女性が農作業中に襲われて亡くなったという話でした。
分散授業のため、神社のところで授業を受けていました。兵隊さんは、娯楽のため、櫓をくんで歌ったり、踊ったりしていました。
終戦はラジオの玉音放送で聴きました。

昭和20年の春

昭和7年生まれ 女性(大崎町教育委員会では平成26年に戦争体験者の方々から聴き取った話をまとめてデータに残しています)

昭和20年の春,私は志布志女学校に入学しました。入学したばかりの校舎は,3月にあった空襲によって所々に穴があいていました。
菱田の家から志布志女学校まで汽車で通学していましたが,空襲警報が発令されると汽車は走らなかったので,徒歩で帰っていました。あの日(昭和20年7月15日)も空襲警報が発令され,友だち数名と一緒に徒歩で帰っているところでした。志布志中学校(現在の志布志高等学校)の前には「東亜銃工場」という武器製造の工場があったので,そこに焼夷弾を落とすためにグラマンがやってきていたのですが,運が悪かったのかちょうどその時に私たちは志布志中学校を通り過ぎた辺りを歩いていました。私たちはすぐそばの家に逃げ込みましたが,その家の人は避難していたのか誰もいらっしゃらず,そうこうしている間にグラマンが低空飛行しながら襲ってきたのです。あまりに低空飛行だったので,グラマンに乗ったアメリカ兵の顔がはっきりと見えました。私たちは慌てながら何とか鉄道線路のゲート下にもぐり,そこを流れる小川(今考えるときれいな水ではなかったと思います)で湿らせた手巾で口を覆い,身をかがめていました。どれくらいの間だったかはわかりませんが,長かったように感じます。そのうちにグラマンは去っていき,私たちは難を逃れました。
「戦争」を思い出す時,まずあの日の光景がアメリカ兵の顔のともに脳裏によみがえります。生きていてよかったと心から思います。