日向市
戦争体験記
航空隊での山中生活
昭和17年、私は教師を目指して師範学校に通っていました。当時、学生を対象に創設された「特別志願制度」により、成人した者は志願をしなければならず、私は教職の夢をあきらめ、航空隊を志願しました。そして、仙台陸軍飛行学校で速成訓練を受け、フィリピンの偵察飛行隊に派遣されました。
フィリピンのレイテ島沖の海戦は、日米の陸海空総力をかけた激戦と言われました。日本の航空隊は、「神風特攻隊」と呼ばれ、飛行機に250㌔の爆弾を装着し、機体もろとも敵艦に体当たりする攻撃で、多くの操縦士が犠牲となりました。毎朝、基地から2機3機と別れの翼を振り、レイテ島沖に飛び立つのを見送りながら、いずれは私にも特攻の命令が来ることを覚悟しました。そうした中、米軍機の奇襲爆撃で私たちの飛行機が全滅。「陸に上がった河童」同然となり、帰国命令が出たものの、待機中に米軍の上陸作戦に遭遇、山中に陣地をおいていた地上部隊に合流させてもらいました。
ここから、7ヶ月間にわたる山中生活を送ることになるのですが、まさに「地獄」でした。1日に2つも3つも山を越えながら谷川のほとりに野宿する生活でしたが、食料が3か月で底をつき、木の芽や野草と水で飢えをしのぎました。
このため、栄養失調で倒れる者、疫病(マラリア)に感染し、命を落とす者などが数多くいました。そして、先の見えない状況に耐えられずに自ら命を落とす者まで。「このままここにいては、自分たちもどうなるか分からない」と感じ、部隊を離れて行動した結果、幸運にも生き延びることができ、昭和20年10月24日に終戦を知りました。
最近まで、毎晩のように自分一人が山の中に取り残される夢を見ていました。毎年8月15日を迎えると、「よくぞ生きて帰れた」という思いと同時に、戦後70年を迎え、戦争の歴史が風化しつつあるという思いがします。これまで教壇や慰霊祭などで戦争体験をお話してきましたが、昨年私は、悲惨だった山中生活の全てを、初めて公に話しました。
「若い人たちに戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えていかないといけない」、それが今の私にできることだと思っています。
病院への空襲
富島病院で外科の看護婦をしていたのは、18歳の時でした。庄手地区の方にB29の爆撃機が不時着し、そのパイロットだったアメリカ兵を治療したときは、怖くて体の震えが止まらなかったのを覚えています。空襲警報が毎日鳴り響いて、病院の敷地内にいたとき、至近距離で機銃掃射を受けた時は、「もうダメだ」と友人と手を合わせ神様に何度も祈りました。何度も死を覚悟しました。命がある、生きていることは当たり前ではありません。戦争を体験した私たちは、今生きていることに本当に感謝しています。戦争は二度と味わいたくないし、後世にも味わわせたくありません。今のこの平和な世の中が続くことを祈るばかりです。
防空壕の中への爆風
当時19歳で県の地方木材株式会社の細島出張所で経理事務をしていました。当時の警察署の裏手に仮事務所があって、その横に防空壕がありました。細島小学校の運動場が機銃掃射を受け、急いで防空壕に避難しました。入口を閉めていた防空壕の中に爆風が入ってきたその時は「もうダメだ」と思い、家族で手を取り合って、「みんなで死ねるなら」と話したことは忘れません。夜は灯火管制といって、灯りをつけることも許されず、ひたすら部屋を暗くしていました。そんな中で、60歳を過ぎた母が熱を出して寝込んだことがあり、母を残して防空壕に逃げることはできず、空襲の中、姉と二人で母を看病したことも。家族で手を握り、死を覚悟したことは本当に何度もありました。戦争が終わったことは、8月15日のお昼、当時何軒かの家にしかなかったラジオを聴いた人たちの噂で知りました。「日本が勝った」、「日本が負けた」などさまざまな噂が飛び交い、どれを信じたらいいか分かりませんでした。実際、日本の敗戦を知ったときは、進駐軍もいたこともあり、この先日本がどうなるのかと不安な気持ちでいっぱいでした。私の同窓生や多くの人の命を奪った戦争。憎しみや悲しみしか生み出さない戦争。絶対に戦争は起こしてほしくないです。
国民学校1年生の記憶
1944年 (昭和19年)当時、私は平岩国民学校の1年生でした。教室で勉強する時間もなく、宮崎方面から米軍機の来襲近しとなると、平岩村役場の「サイレン」がけたたましく鳴り響 き、地区の親子会集団ですぐさま山伝いに下校しました。しかし、ますます危険が迫ってきたので、村の父兄が学校近くに造った横穴防空壕に逃げ込む毎日でした。こんな怖い駆け足行動でしたが1年生、2年生で誰も泣く子はいませんでした。軍国少年少女だったのです。
1945年 (昭和20年)、2年生の新学期からは、4年生以下は地区ごとに神社や民家の分散教室となり、先生は1人でした。4月から7月までの神社教室の1学期は、勉強した記憶はなく、沖縄県糸満市から家族疎開で来ていた同学年の子と、神社の庭で「戦闘機」や「軍艦」の絵を描いて遊んでいました。
しかし、何時、米軍戦闘機が来襲して来るかも知れない日々。富高方面から爆弾投下の音が微かに聞こえてきました。またもや「サイレン」が鳴り響くと、生徒達は蜘蛛の子を散らすように自宅の防空壕に逃げ込みました。1人の先生は気が気でならなかったでしょう。
7月6日には怖い思いをしました。岩脇駅に停車中の汽車に米軍機1機が猛烈に機銃掃射を始めたので、皆、机の下に潜り込みました。射撃を数回に亘って繰り返し、その時の旋回は丁度、我が神社分散教室の上でした。低空飛行するその時、米飛行兵の顔がはっきり見えました。森に囲まれた神社だったので発見されずに皆無事でした。
家の近くの青年が召集される時、駅まで見送りに行き旗を振ったり、戦死した兵隊さんの骨のない「白箱」が帰ってきたのも見ました。
夏休み中、防空壕のそばで米軍機B29が空高く北上するのを見ていると、美々津からの大砲が機の下で白煙だけ残って命中しないのを何回も見ました。
いつの日か、父が草履を沢山作っているので尋ねてみると「いつか山の奥に逃げて行くぞ」と言うのです。その時は何もわかりませんでしたが、米軍は沖縄の次は11月1日に宮崎海岸に上陸の予定でしたので、大人は感づいていたのでしょうか。その時の為に家族の分を作っていたのです。
8月6日、9日の広島、長崎原爆投下の時は、父が「特殊爆弾が落ちたげな」と、8月15日には「日本は戦争に負けた」とラジオで聞いてきた父が言いました。僕は「米英に負けるな、やっつけろ」といった軍国少年で、その夜は悔しくて電灯一つの家族の中で泣きました。その時、「日露戦争」で父を亡くした母が言いました。「日本は何年も戦争を続けてきた」と。
大人になるにつれ知ったのは、日本は、1894年の日清戦争から何と約50年間も戦争を続けていたのです。沖縄戦か、原爆投下の前に降参していれば無残なことにならなかったと思います。戦死者を見て復員した「兵隊さん」が言ったように「戦争は絶対したらいかん」と。無謀な戦争をした日本でした。これからは「平和外交」の日本になってほしいです。