宮崎市
戦争体験記
父の戦没地フィリピン
紹介文:平成17年から宮崎市戦没者遺族連合会会長として、本市の戦没者遺族の援護事業に多大な貢献をされており、戦争の記憶の風化を防止する事業にも取り組まれ、その功績は大きい。令和5年度には、援護事業功労者厚生労働大臣表彰を受賞されている。
父は昭和19年8月、フィリピンのマニラに出征した。昭和17年6月にミッドウェーが大敗を喫したことから、東アジアの島々が次々に玉砕され、昭和20年1月、ルソン島リンガエン湾に米軍上陸、2月3日、マニラ市街戦に突入、火中に飛び込む有様、2月10日マニラ市にて砲弾を浴び、出征し僅か半年で戦死。マニラ市街戦は最大の激戦地、日本軍約2万人は命令を聞かず、市街の郵便局・市役所・国会議事堂などに立て籠もり応戦したものの米軍は無差別砲撃を敢行。日本軍全滅、マニラ市民10万人が犠牲となり市街地は廃墟と化した。キリノ大統領夫人とその娘たちも巻き添えになった。
日本兵が大量の61万人をフィリピンに駆り出され、アジア太平洋の戦場で、最多の50万人が散華。米軍の攻撃で日本兵は、山岳地帯と退却して行く。山中での行軍行動は厳しく、食糧がつき、補給はなく、雑草や、蛇やトカゲ、虫などを食べ、飢餓、病に倒れる者が続出。負傷者などは見放され、ある者は苦し紛れに渡されていた手榴弾にて自決。東条陸軍大臣が示達した「戦陣訓」「生きて虜囚の辱めを受けず」の徳目に縛られ脱走を試みるものは殺害され、終戦でありながら山中に立て籠もる日本兵も多数いた。戦死者よりは餓死者の方がはるかに上回り8割が餓死、現地人も100万人の犠牲者を出し、如何に戦争は悲惨で、残酷なものであったことを思い知らされた。
終戦、父の帰国を待ちわびていたが、白木箱の帰還。中身は石ころ2個、変わり果てた姿に悔しさ、悲しさで遺骨を投げ捨ててやりたい気持であった。私が3歳時、幼い育ち盛りの子供を抱え、一家の支柱を失った母達は、就職難、食糧難、資金難のナイナイ尽くし、生活の目途が立たず、母子心中をする悲惨な例もあり、明日をも知れぬ不安に包まれ、孤立無援、奈良の深渕に突き落とされ、苦悩と不安の連続。そこで兄弟、母達が境遇を同じとするもの同志により手を携えて立ち上がる。連合軍の厳しい検閲の中、苦難の末、遺族会を立ち上げた。廃止されていた扶助料の復活、特別給付金、弔慰金等、汗と涙の結晶が実を結び国からの援助を勝ちとり、悲惨な長い困窮の生活から明るい兆しが訪れた。
私の父がフィリピンに出征したのは私が2歳のとき、写真でしか知らない父、父の面影を追って、平成10年に日本遺族会が主催する慰霊友好親善訪問団員の一員としてフィリピンに渡った。
フィリピンの山間部は車の進めない密林や尾根を2時間位歩いて戦没地を訪ねるということも稀ではない。道路や宿泊事情もよくなく、ガタガタ道を一日中揺られ続け密林の中まで入って行く。困難な箇所は方角をさだめ手を合わせるのが関の山、終わって帰り着いた宿の壁にはヤモリが張り付いているというのも当たり前、という状況の中で巡拝を続けた。父の戦没地のマニラ慰霊祭の前夜、眠りに就いた時、ベットの傍らに父が現れ「よく来てくれた有り難う」と声を発し部屋からスッと立ち去った。後にも先にも初めて見る夢、父は首を永くして待っていてくれたんだと痛感。慰霊祭当日、戦没地の前で慰霊文を読み上げる際、今まで呼んだこともない父の呼び名を「お父さーん」と大きな声で叫んだ。胸につかえていたものが消え、満足感、感涙の日となった。日本からはるか離れた異郷の地で、父はどの様な想いで死んでいったのかと思うと、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
今の平和と繁栄は、戦没者の方々の尊い犠牲の上に築かれていることを決して忘れてはならない。慰霊祭、追悼式の開催は未来永劫に続けるもの、尊崇の念を決して忘れてはならない。未曾有の戦死者240万人、国内の空爆と併せて310万人が犠牲者になった。二度とこんな恐ろしい、悲しい思いをしたくない。こんな戦争をして日本の国はどんな利益があったか、何もない。ただ、恐ろしい、悲しい事が沢山起こっただけ、戦争は人間を滅ぼす。