日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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別府市

戦争体験記

シベリア抑留体験

佐藤 八郎 氏

佐藤さんは、大正12年別府に生まれました。昭和16年12月に旧満州国の新京関東司令部経理課に採用され、昭和17年2月、航空兵団経理部佳木斯(チャムス)満州第412部隊に配属。昭和19年1月、高射砲第26総隊満州第2687部隊に入隊します。終戦後にはシベリアに抑留され、昭和22年12月に別府に帰還しました。
 収容所は、町の中心から遠く離れた所にあった。正門を潜ると中には囚人たちが収容されていたという白壁の建物が、幾棟も広大な土地に立ち並んでいた。その周囲には有刺鉄線が張られた跡がそのまま残っていた。この白壁の建物が、これから捕虜たちが生活する宿舎になる所で一棟に何人かずつ割り当てられて入る。
 その翌日だったと思う。全員(200人ほど)舎前の広場に集合させられ点呼を受けた。
 収容所長であろう、ソ連軍将校が台上から、これからの捕虜生活についての注意事項等が通訳を通じ長々と続いた。最後に言ったのが「働かざる者食うべからず」だった。この言葉がのちに、捕虜たちの生活、労働に重くのしかかってくるようになる。
 シベリア収容所での第二夜が訪れた。翌朝目を覚ますと、相変わらず降り続く雪と冷たい風が吹き寒かった。
 時は九月も終わり十月に入っていた。私が居たシワキ町の自然環境について述べると、シベリアの夏は短いが、日中はさすがに暑い。この暑さも夜や早朝は冷風がここちよい。夏は特に紫外線が強いのでこの間だけ上半身裸で作業ができる。それも一か月足らずで終わる。肌一面真っ黒に焼け痛い。それでも捕虜たちにとって夏は辛いということはなかった。気温は平均20度程度だろう(7月が最も高いようだった)
 通常9月には雪が降り始め、10月ともなれば粉雪から積雪になる。こうなればシベリアに本格的な冬が訪れたことになり、最も寒気をおぼえるようになる。この雪も私のいた収容所では翌年5月下旬頃から溶け始める。したがって春、秋という季節はない。秋を飛び越して冬になる。夏から一足飛びに冬が訪れて、冬が終わったと思うと短い夏になる。
 真冬になると、シベリア高原を吹く風はナイフのように鋭く痛い。針で刺されたような痛みを感じる。この寒さは、体験したものでなければ到底理解することは出来ないだろう。
 平均気温は、私のいた収容所では零下25度から30度くらいはあった。最低は地域によって異なるが零下40度くらいから50度近くになる所もあると聞く。
 シベリアの入り口である「ハバロフスク」は海岸に近いせいか、シベリアとしては最も暖かいところだと言われている。
 私が体験した、この恐ろしい寒さに耐えることができたのも、体力、若さと、3年7ヵ月の間、満州(現中国東北部)の冬に慣れていたせいだと、私自身そう思った。
 旧満州の真冬でも、私のいた東満佳木斯(チャムス)辺りでも平均気温は零下15度から25度は常にあった。北満辺りになると零下25度以下に下がるところもあるという。
 寒い地域では、この寒波によって注意することは凍傷である。10月頃から翌5月までの雪が溶け始める頃に罹りやすい、凍傷を起こしやすい箇所は特に手(指先)、足の爪先、耳などに多い。罹ったときは、針で刺されたような痛みを感じる。ひどくなると、感覚がなくなり部位は真っ白くなり自然に崩れていく。外気に素手を出すと、数秒で激しい激しい凍傷を起こすと言われている。
 我々捕虜たちは、屋外労働が多いので完全な防寒用具が貸与されているが、それでも落とし穴がある。特に手套(手袋)の指先に小さな穴でもあれば指先をやられる。凍傷箇所は白くなるのですぐ分かる。凍傷患部はまず雪か布で赤くなるまでごしごし擦る。罹ったまま舎内に入るのは危険である。凍傷は重大な問題とされていた。
 凍傷には、ソ連も相当に気を使っていたようだ。それは捕虜の労働が低下するからだ。一定温度以下に気温が下がると、その日は屋外での作業(労働)は休みになる。収容所では、零下35度から40度前後が内規によって作業が休みになる。体験からその日の気温が概ね分かるようになる。その休みも一年に何日かあるくらいで、捕虜が休養できる一番嬉しい時である。この休みが2,3日あったと記憶している。
 この寒さは日本的常識では図ることができない。想像もつかない寒さの中で、捕虜たちは常に屋外労働を強いられていた。貸与された(1)外套(2)大手袋(3)防寒帽(4)防寒靴(5)脚絆(6)マスクなどの防寒用具を身に着ける。これらの防寒装備をすることによって屋外に出てもまず大丈夫。しかしこれだけのものを身に着けるので、身体の動きが鈍くなり労働力が低下する。警備兵はそんなことにお構いなしで、「ダワイ、ダワイ」と言ってせきたてる。顔面で出ているのは目だけ。この目も睫毛についた雪が凍ると、目も見えにくくなる。
 その(昭和22)年の夏も終わり、雪に明け暮れた長い冬(3度目の冬)が訪れようとしていた。3度目の冬を、この酷寒の地シベリアで過ごすことは私にとって、死の恐怖であり、また生きて祖国の土を踏むことのできる限界線だと思っていた。幸いにして、3度目の冬を越すことなく、昭和22年12月2日無事帰国することができた。
 今、振り返って思うに、誰にも一生ついてまわる色々な体験があると思う。私は、2年数カ月に過ぎなかったが、厳しい労働、貧しい食事、極寒の中で過ごしたシベリア抑留生活の体験をしたことである。