大分市
戦争体験記
大分焼夷弾攻撃に依り姉と娘二人遭難
姫野さんは、国鉄職員として昭和二十年一月に大分に赴任し、終戦までの間に空襲を経験している。昭和二十年七月十六日から十七日の大分空襲で、その様子を目撃し、また姉とその娘二人が被災し亡くなられた。
昭和二十年一月十五日、私は博多保線区より大分保線区に転勤命令がでた。三月の中旬を過ぎる頃から県北地方が初空襲に見舞われ、以降日に増して空襲が頻繁になって来た。姉は三年ほど前主人に先立たれ、主人の残した鍼灸院を営むかたわら、愛子・房子二人の娘と、細々と暮らしていた。当時四十二歳だった。その所為か口癖のように、「万一のことがあったら胴巻きに通帳と印鑑を入れてあるから私達の後始末はよろしく」と、義兄や近親者に漏らしていた。四月に入ると予告なしに敵のグラマンの編隊の来襲が激しくなり、超低空で東方面から機銃掃射を繰り返し西方に飛び去り、私たちは保線区の二階から転げるように階段を防空壕へと避難していた。其れと同時に機関区の上空ではB29一機が零戦の攻撃を受けて白煙を吐きながら消えていくのに私達は「やった!」と呼んでいると、すぐ近くの道路に流れ弾が「バーン」と音をたて突き刺さり驚いた。また駅構内の官舎は焼夷弾の延焼を防ぐために引き倒し作業が続けられていた。五月が近づくと、一層グラマンの来襲が激しくなり、警戒警報下でも突然来襲することもあり、そんな訳で保線区は南大分に疎開を始めた。引越が終わるころ、私は東別府にすでに疎開している管理部の施設課に転勤することになった。六月になると県下は連日のように空襲に見舞われるようになった。六月中旬姉の嫁入り先の敷戸の義兄から大分の中心街は危険が迫ったから敷戸に疎開しないかと、度々進められ、姉親娘は義兄(主人の兄)の家にお世話になることになった。やっと落ち着いたかに見えた矢先、一か月ほどして長女の愛子が第一高女に通学に不便だからと敷戸の伯父や母の反対を押し切り、長浜の自宅に姉娘三人共戻ってきた。それから何日もたたぬ七月十六日の深夜の空襲に姉と房子は隣保班の人と大分川の方に避難しながらふと後ろを振り返ると長女の愛子が見えない。姉は嫌がる房子の腕を引っ張るようにして吾が家の床下に造られた防空壕へと引き返した。
その頃、私は十粁ほど離れた大在の吾が家で空襲のサイレンに目覚め飛び起きると生後七か月の長男を抱え畑の中の防空壕へと駆け込んだ。まもなく西の空が照明弾で真昼のように明るくなる。私は恐る恐る壕外に出て見ると西の空はバチバチと中心街は真紅に燃え上り、私は長男を妻にあずけ、大分の姉が危ないと出かけようとすると義母と妻から裏ぎられ、今行っても飛んで火に入る夏の虫のようだと言われて、やっと思いとどまる。翌朝一番列車で出かける。大分駅に着くと辺り一面焼け野原に私は驚いた。長浜町迄二粁を硝煙に咽びながら、現場へと急いだ。長浜の姉の家は跡形もなく焼け崩れ、人影はなく私は茫然と立ちつくした。暫くすると大分川の方から一人二人と人影が帰り始めた。私は麻生の姉を訪ねるが、誰も「知らないね」とすげない返事。無事に避難してくれと心に祈りながら立ち尽くす。暫くすると警防団の方が見えたので、訪ねると麻生さん親娘は二時間ほど前、敷戸の義兄さんという方が来て、車で身柄を引き取って帰りましたとのこと。私は言葉もなく、再び「ぼうぜん」と立ち尽くす。深夜から夜明けまで助けを呼ぶ悲鳴にも火勢に妨げられ手の施しようもなく鎮火を待って助け出した時には既に三人共無残な姿になってしまい残念でなりません。その遺体の胴巻きには何も残っていなかったそうだ。私は暫くしてふと吾に返り駅へと急いだ。東別府の職場に連絡して敷戸の義兄の家へ急いだ。但しまだ諦めきれず、万が一生きていてくれと心に祈り続けた。やっとの思いで辿り着くと柩に納められた姉と娘二人の変わり果てた姿に改めて涙が溢れてきた。同じ場所同じ時刻に亡くなりながら、姉の頬は真紅の死相、愛子は木炭のように真っ黒な頬に変わり果て、房子だけは今にももの言いたげな可愛い姿に私は涙で曇りがちになる。半時ほどして母も駆けつけ柩に取り縋り、姉に「済まなかった」、愛子にも房子にも「済まぬ」と何時迄も号泣する姿に私ももらい泣きしてしまった。愛子は八歳の時に「義勇奉公」の手筆が日本一に選ばれ、時の書道院総裁より表彰状と銀製の名古屋城の模型を頂いた思い出がある。今も「義勇奉公」の掛け軸は大在の浜の姉の処に大切に保管してある。三名の遺体は夕方、近くのお寺の境内に埋葬された。