時津町
戦争体験記
昭和二十年八月十五日の思い出
人物紹介
山口さんは、当時17歳。時津村の男衆で組織された防衛隊の一員でした。終戦の日は、長崎市で被爆し、時津へ逃げ延びながらも身内に看取られることなく、息絶えていった犠牲者を埋葬する任務についていました。
体験記
長崎市へ原爆が投下されたその日の午後から、わが時津村にも続々と被災者及び、負傷者が逃げのびてきた。そこで、いち早く時津国民学校と浜田の万行寺が「臨時救護所」となった。
無論ここは、一時的な救急診療だけであり、連日多くの死亡者も出ていた。その当時、残り少なくなった男衆がかり集められ「防衛隊」なるものが組織され、本土決戦に備え、陣地構築やら、穴工場のトンネル堀りにも交代で出ていたが、十七才だった私も当然出動していた。
本日のこの防衛隊の仕事は、救護所で死亡した人達の埋葬で、総勢二十二名が、午前八時過ぎ各自がスコップ、唐鍬など持って役場前に集合した。
二班にわけられて、一班は墓の穴掘り、二班の者は死体搬送と決められ、自分は不運にも二班となった。墓掘り班は直接、現場の左底郷ビワ倉庫裏山へと向かい、自分達は救護所となった学校へと急いだ。
運動場の栴檀の木陰には馬車が一台用意されてあり、大八車では間に合わず、大勢で引っ張って行くつもりであった。石段を上がり北側校舎に行って見ると、夏休み中のすべての教室が解放され、板間には毛布や布団が敷きつめられ多くの患者がひしめき合っていた。
その多くの人達が発するうめき声、泣き叫ぶ子供達、最後の水をほしがる重症者などなど、正に「地獄絵図」そのものの感がした。
その上、ほとんどといってよい位、すべての患者が白い油ぐすりや、どす黒い薬を患部に塗りたくってあり、顔中の火傷の人等はまるで化け物のような形相をしていた。
原子爆弾のガスのせいだろうか、多くの人が黒い液体を吐き、衣服や寝具をよごし、すごい悪臭を放っていた。その上、暑い最中であり、蝿が傷口にたかり蛆虫のわいた人もいた。
どの教室も同じような有り様で気分が悪くなってきた。死体安置場所は、校庭のすべり台付近にむしろが引かれ、無造作に並べてあり、毛布がかぶせかけてあるだけ。
ただ枕元には、白木の墓標に住所、氏名、年令が書き込まれ、置いてあるだけで線香一本立っていなかった。身元の解らぬ者は、「住所、氏名不詳、女十七才位」と云う墓標もあった。
それはきっと、やっとの思いでここまでたどり着き、住所氏名すら告げる力もなく息絶えた人に違いないと思った。並べられた死者は十八体であったと記憶している。
私達は蝿のたかる毛布をはぎ取り、二人一組となり、変わり果てた亡骸を次々に担架で下の馬車にと運んだ。結局、十八体を一回には積めず二回通ふ事にした。前から荷馬車を引っ張る者、後押しする者、約十名の防衛隊の引く「荷馬車霊柩車」の一団にはお坊さんの先導もなく、供花どころか線香の香りすらない。
また彼等の死を悲しむ身内の一人のお供もない一団だった。清風館を通り過ぎ、海沿いの道に出ると穴だらけのデコボコ道。このくぼみに車輪がはまると、縄がけしていない仏様達は、まるで生き返ったように手足を動かし、はね上がるのである。
タオルで口をふさいでいるが死体特有の異臭、頭の中がクラクラした。暑い日差しのなか汗を拭き拭き、皆の者が無言で車を進めた。
一班の待つ野墓は多分、牛馬を埋める場所であったらしく、巾二米余り、長さ約十五米位で、深さが一・五米位だと思った。この長方形に掘った墓地に一体ずつ五十糎の間隔を取って、東枕、次は西枕と交互に埋めていった。
そしてその枕元には白木の墓標を立てた。
一台目の最後の仏様は女性であったが、毛布をはぎ取ると、あちこち破けた上衣と、かすりのモンペ姿で、胸のふくらみから察すると三菱兵器大橋工場あたりで被爆した女子挺身隊の動員学徒の娘さんかと思われた。
髪は焼けちぢれ、顔は目、鼻の区別すらわからない位はれ上がっていてひどい火傷を受けていた。不思議にも彼女の上着だけは國防色の新品の旧軍衣のシャツがかけられていた。
二人で担架から手首と足首を持ち上げ、穴におろすべく二、三歩前に進んだ途端、私の手から、ぶよぶよにはれ上がった彼女の手首がずるりとすべり、彼女は「ドスン」と頭から落ち込んでしまった。新聞紙と共に彼女の皮膚の一部が私の手の掌に残った。私は、一瞬「ハッ」と思ったが後のまつりで、心底から申し訳ない気持ちで後で、穴の彼女を正し、胸元に手を合わせ、静かに土をかけた。多分、私の年と同じ位だと思った。
この墓地のすぐそばに柿の大木が枝をはり、墓地を覆いかぶさるように繁茂していたが、この柿の木の蝉だけがやたらと鳴いていた事が妙に鮮明によみがえってくる。当日、夕方近くだったと思うが、役場で帰りしなに、誰かが「日本は敗けたとげな!陛下の放送があった」と言ったが、折返し、デマは信用しないようにとの注意を受けて帰った。私は今までかって経験した事のない暑い暑い、そして長い長い一日だった。
