日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

  1. ホーム
  2. 会員
  3. 被爆80周年事業「未来につなぐ戦争の記憶」
  4. 長崎県
  5. 南島原市

南島原市

戦争体験記

特攻隊員の残した言葉

松永 文則 氏

 松永さんは当時現在の南島原市の小学生でした。空爆を何度も目撃し、心が休まらない不安な日々を過ごしていました。玉音放送で終戦を知った時には、大人たちは悲しんでいる中、子どもながら、「ほっ」としたと感じたことを今でも鮮明に覚えている、また幼い頃経験した戦争、その時戦争のために出征していく大人たち、特に今でも特攻隊について心に残り続けていると話されました。
 敗戦から80年、今や戦後生まれの人が多くなり日本人にとって先の大戦の記憶は実感を伴わない過去の歴史上の出来事となってはいないか。いま戦禍を実感として知らぬ世代が一億人以上に達している。
 私は今までに鹿児島県の知覧特攻平和会館に3回、福岡県の太刀洗平和記念館に2回、そして広島県呉市にある大和ミュージアムを1回訪ねた。太平洋戦争の末期、戦局の挽回のため敵に体当りして死をもって戦果と挙げる特別攻撃作戦があった。この特攻隊員は17歳から20代前半の若者で、自分の人生とも決別し国のために殉ずることを任務として与えられた。いくら戦時中とはいえ、祖国のためにたった一つの命を投げ出して散華していった若者にとっては無念であったろう。昭和20年に出撃した19歳の上等兵に遺書の言葉に感動した。
 「父に会った、母に会った。お互いに手を握り、目を見つめ合い三人の心が一つの世界に溶け込んだ。そして涙とともにのみ込んだ母の心づくしのすしの一片は母の愛を口移しに伝えてくれた。母の心づくし。生涯で最高のおいしさだった。」と記されていた。
 自分が死んでいく身であるからこそ感じる家族のありがたさは言葉に表せないほどのものだったに違いない。
 また特攻隊の命令を受けた隊員が出撃を前にして故郷の母へ出した手紙に「・・・人生の価値は長さではなくその深さにある」と書いた言葉だ。これは短い自分の人生を振り返り「生死」を克服し死への精神を高めていった特攻隊員の心の叫びのような気がする。そうした特攻隊員のほとんどは20歳前後の優秀な若者達だった。彼らはいかにして人生を燃焼し尽したのだろうか。
 南海の青い海に散華していた彼らも青春の真っ盛りで本来ならば夢と希望に満ちた未来を思い描き青春を思う存分に謳歌する年頃である。こうした若者達の思いはいつの時代でも変わることはないはずだ。どんなに生きようとしても死以外の選択肢がなかった特攻隊員達、死の覚悟は決めていても生きていたい本能は心の底にあったはず。隊員達は出撃まで粗末な三角兵舎で人生最後の時を過ごしたのである。出撃の前夜は壮行会があり酒を酌み交わした後、薄暗い裸電球の下で遺書を書いたり、別れの手紙を書いたりして最後の夜を過ごした。出撃前のどの写真を見ても、みな無垢で純粋な笑顔であった。幼さが残る隊員の表情と澄んだまなざしに心を打たれた。出撃する当日は「ご成功を祈る」を告げられるのが別れの言葉であった。そして「後を頼む」とにっこり笑って出撃していったという。彼らは現代に生きる我々の価値観では到底計りしれない時代の要請に正面から対峙し時代の波に身を委ねたのである。
 過去、現在、そして未来に続いていく国の歴史の中で、私たちは今、平和で繁栄した日本に住んでいる。それは祖国を救うために青春を捧げた特攻隊員達の尊い犠牲の上に成り立っている。学生歌の「同期の桜」を口ずさむとき「…未だ還らぬ一番機」、「……なぜに死んだか散ったのか」の歌詞に若き特攻隊員達の心が強く胸に迫ってきてなぜか切ない。

松永 文則 氏