日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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長崎市

戦争体験記

戦後五十年、私の被爆体験記

永野 悦子氏(当時十六歳)

片淵町の長崎大学経済学部(二・八㎞)で学徒報国隊員として作業中に被爆。父と出会い、翌日銭座町の自宅近くで大火傷の弟、あとで母や妹と会ったが…。

混乱の稲佐橋の上で父と出会う
 一九四五年八月九日、長崎の街は原爆によって焼き尽くされ、私の弟妹をはじめたくさんの人々が死んでゆきました。被爆者として全ての人々に戦争の恐さを訴えたいと思います。
 長崎に原爆が投下されたのは、昭和二十年八月九日午前十一時二分、その時私は十六歳でした。
 九日の朝、空襲警報が解除されていたので、私はいつものように出勤し、家には母と妹弟がいました。
 その日は真夏の太陽がギラギラと照りつけるとても暑い日でした。
 私は配給で貰った白い運動靴をもっていたのですが、もったいなくて、その日はすり切れた下駄を覆き、学徒報国隊として働いていた場所へ行きました。
 現在の片淵町の長崎大学経済学部の雨天体操場の中で、三菱電機の出先工場の旋盤工として、飛行機の部品を作っていました。爆心地より二・八キロメートルの所でした。
 そして十一時頃、突然窓ガラスにピカッと閃光が走ったかと思うと、急に薄暗くなり、バリバリとガラスの割れる音と、同時に何か物が飛び交う音がしました。その時私は近くに焼夷弾が落ちたのかと思いました。爆風が、割れた窓ガラスから、サッと入ってきました。思わず両手の親指で耳をふさぎ、残り四本の指で目を押え、床に伏せました。
 口の中に土挨がザクザクと入ってきて目も開けられないくらいでした。何がどうなったか解らないままに部屋を飛び出し、近くの防空壕へ避難しました。
 工員の男の人が私の名前を呼んで「浦上は全滅らしい。わいんがた(おまえの家)は燃えてなくなったかもしれんぞ。早よう帰れ。」と教えてくれました。私はあわてて自宅のある浦上の方へ向かいました。片淵町一帯は窓ガラスや瓦が少々割れた程度の被害でしたので、半信半疑の思いで歩いてゆきましたが、長崎駅まで来たところで、これは大変な状態だということが解ってきました。長崎駅から浦上の方を見ると、浦上方面がずっと先の方まで一望できました。
 家は軒並に崩壊し、あちこちに火の手が上り、道路もなくなっていました。びっくりして途方にくれましたが、やっとの思いで汽車の線路づたいに歩いて宝町まで行きました。長崎駅より浦上に向かって二ツ目のバス停です。私の家は宝町から右の方へ歩いて十分位の所で、爆心地より一・二キロメートルの所にありました。
 そこはすでに道がなく、火にはばまれて進むことができなかったので、回り道をして左の方へ行き、稲佐橋を渡って帰ろうと思いました。
 その橋の上で偶然にも勤め先の三菱電機から帰宅途中の叔父と出会うことができました。叔父からもうすぐ私の父もここを通るから待っているようにと言われました。私は目を皿のようにして行き交う人の中から父をみつけようとしました。ほどなくして父がやってきて、お互いの無事な姿をみたとたん抱き合って泣いたことは、今でも忘れることが出来ません。何時迄も泣いてるわけにいかず、とにかく家族の安否を確認しようと、浦上川に沿って竹の久保町の方へ歩きました。
 茂里町の橋の上には、立ったままの状態で黒こげになった馬の死体がありました。また赤ちゃんを背負った母親が流し台にもたれたままの格好で、黒こげになって死んでいました。
 浦上の方から逃げてきて、やっとたどり着いたというのに、とうとうここに来て息絶えてしまったと思われる人達の死体がごろごろころがっていて、私は生きた心地がしませんでした。火傷で火ぶくれになった人や、破れた洋服が体にはりつき裸同然の人々が右往左往していました。浦上川の土手にも数え切れない程の人々が、折り重なって死んでいました。
 息絶え絶えの人達に「水を下さい、助けて下さい。」と悲痛な声で助けを求められましたが、父も私も何をしてやることも出来ませんでした。家が壊れ瓦礫の下敷になって、そのまま息絶えた人、懸命に生きたいと願うように手を突き出してもがき苦しんだ姿そのままに死んでいる人、右を見ても左を見ても傷ついて亡霊のようにさまよっている人達ばかりでした。
 あたり一帯まだ火がくすぶっている状態で、自宅までたどり着くことができず、近くの防空壕にお世話になりました。母や妹弟の安否が気になりましたが、父と巡り会えただけでも運が良かったのだと神に感謝しました。もし会えていなかったら、私はひとりどんなに心細い思いをしただろうと今でも思います。
 防空壕の中は電気は勿論、ローソクも無く真っ暗な闇の中で、傷ついた人達が一晩のうちにひとり、またひとりと死んでいきました。
「水を下さい、助けて下さい、私は何町のだれだれです、連絡して下さい。」と言いながら苦しみ続けて死んでいきました。夜中に敵の飛行機の爆音と焼夷弾の炸裂するような音が聞こえ、私は震え上りました。八千代町にあった西部ガスのガスタンクが爆発したのか、ドカンドカンというものすごい音が闇の中に響きわたりました。
 この恐ろしい出来事はとても言葉で言いつくせるものではありません。脳裏に焼きつき、生涯消え去ることはないでしょう。生き地獄とは正に原爆落下の日のことだと今でも実感しています。
 翌十日、地面はまだ焼けて熱かったけれど、父と二人で一面の焼野原の中を歩いて自宅辺りへ行きました。そこで最初に目に飛びこんできたのは、焼け崩れた家の跡に横たわる黒こげの大人の死体でした。
 私はそれが母だと思い「お母さん お母さん。」と黒こげの死体にとりすがって泣きました。
 焼け跡を心配して見に来てくれた幼友達に「悦ちゃん、清二ちゃんはやけどして防空壕にねているよ。どうしてやることもできんで、ごめんね。」と言われて、私と父は急いで近くの防空壕を一つ一つのぞいては、弟の名前を清ちゃん清ちゃんと、大声で呼びました。そして幾つめかの防空壕の入口に弟らしい子供が寝ていました。名前を呼びかけると、やっぱり弟だったのです。弟は全身火傷で顔はまん丸にふくれ、火ぶくれして、目もつぶれて開くことさえできませんでした。洋服も爆風で破れたのか、辛うじて胸に残った名札に「金沢清二・B型・小学四年生九歳」と書いてありました。所々皮膚がはがれ、名札がなかったら弟と分らなかったでしょう。「清ちゃん、清ちゃんね。」と呼ぶと、弟はこっくりとうなづくのが精いっぱいの様子でした。私は変り果てた弟の姿に胸がつまる思いでした。しばらくして「清ちゃん、お母さんは、邦子は、どうしたと?」聞きましたが、弟は頭を振るだけでした。声も出せないのです。弟はどうやってこの防空壕にたどり着いたのでしょう。
 九歳の弟が一晩中知らない人ばかりの中で、ひとり淋しさと恐ろしさと、喉の渇きや苦痛と戦っていたのかと思うと、可哀想で涙が止まりませんでした。
 父が焼けあとより戸板を拾ってきたので、それに痛がる弟をのせて「頑張って、頑張って。」と言いながら救護所へ連れて行きましたが、手の施しようもなかったようで、チンク油を塗ってもらっただけでした。弟は意識がしっかりしているだけに可哀想で、代われるものなら代わってやりたいと本当に思いました。また弟を戸板に乗せ、防空壕に戻る途中、母と妹が疲れきった様子で歩いてくるのと出会いました。
 母は生きていたのです。母は自分の息子の変りはてた姿にとりすがり、狂ったように泣き叫びました。ようやく少し落ちついた母が話したところによると、弟は「トンボ採りに行ってくる。」と言って外に出て行ったそうです。母と妹は家の下敷きになって、妹はちょっとけがをしていましたが、たいしたことはなく、母はけがもなく無事でした。母はやっとの思いで崩れた家の外に出て、初めて付近一帯の家が全壊していることに気づき、あっちこっちで火の手が上ってるのを見て驚いたそうです。トンボ採りに行った清二の事が心配だったけど、探すすべもなく、妹だけを連れて金比羅山へ避難し、夜が明けるのを待って山を下りてきた所で、私達は出会ったそうです。
 弟は両親と姉二人と会えて安心したのか、一晩みんなと防空壕で過ごして、三日目の八月十一日に息をひきとりました。「水をのみたい、痛い痛い。」とかぼそい声でいいながら死んでいきました。
 わずか九年の生涯でした。肉親と会えないままに亡くなられた人がほとんどだったでしょうから、家族と会えて天国へ旅立った弟は幸せなほうだったのかも知れません。原爆が落とされた日は空襲警報が解除されていたので、弟はトンボ採りに出かけて原爆の閃光に焼かれたのだと思います。
 空襲警報が解除されていなければ、弟を始め多くの人々が外出を控えていたでしょうから、犠牲者も少なくてすんだかも知れないと思わずにはいられませんでした。私が母だと思い込んでいた黒こげの死体は、後で隣家のおじさんだったことが分りました。
 弟清二を含めて、亡くなられた近所の人達十人くらいを焼け跡に一列に並べて、焼残りの板切れを拾い集め、死体の上にのせて、自分達の手で火葬にし、肉親との別れをしました。
 島原や諫早の方々が救援に駆けつけて下さり、親切にも炊き出しをしてくださったのですが、炎天下の毎日だったので、おにぎり等もすぐ腐ってしまいました。その酸っぱい臭さと死体の腐敗した匂いが混じり合って、なんとも言いようもないひどい匂いがたちこめ、せっかくのおにぎりも口に入らない始末でした。その後一週間ほど銭座小学校横の防空壕で過ごしました。土手をくりぬいただけの防空壕なので、水滴が頭の上や体にポツンポツンと落ちてきて、真夏でも冷たく感じ、居心地が悪く眠れない日々でした。
 原爆が落とされた二日か三日の後、焼け野原に敵の飛行機が飛んできてビラがばら撒かれました。はっきり覚えていないのですが、「日本は負けた。天皇陛下が降参した」というような事が書いてあったようでした。
 私達は「これはうそだ。そんなはずがない。」と口々に言い合いましたが、忘れもしない八月十五日、長かった戦争が終り日本が負けたことを知りました。ラジオもなかったので、放送された天皇陛下のお声をじかに聞くことはできませんでしたが、人づてに聞き、私の回りにいた人達は大人も子供も皆泣きました。「どうして…、なんで…。」と肩を抱き合って泣きました、今まで苦労して頑張ったのに、犠牲者もたくさんだしたのに。お国の為にと戦地に行き戦死された方々、その家族。原爆で死んで行った人たちの事を思うと、涙が出て止まりませんでした。
 どうせ負けるものなら、終戦がもう少し早ければもしかしたら原爆を落とされる事も無かったかも知れない、特攻隊も無かったかもしれない、死なずにすんだ人達がたくさんいたに違いないと思わずにはいられませんでした。 
 翌十六日、焼けた家をそのままにして、父の故郷の小浜まで歩いて行きました。途中で千々石の方々からワラジや豆をいただき感謝しつつ、何時間もかけて歩き続けました。着のみ着のままでやっとたどりついた親類の家にお世話になりました。本当に、たくさんの人々にお世話になりました。
 今は交通の便も良く、道路も舗装されているので小浜までバスで一時間位で行けることを思うと、当時は本当に大変でした。小浜へ避難してからも妹は飛行機の音がする度におびえて、ふとんを頭からかぶり泣いておりました。「戦争は終ったのよ。」と言っても信じられないらしくおびえていました。
 八月九日より一ヶ月後の九月十日に妹が原爆病で亡くなりました。
 妹は十三歳で、女学生になったばかりでした。原爆が落ちてからはいろいろな噂が飛び交いました。原爆が落下した日に井戸水を飲んだ人は必ず死ぬとか、髪の毛が抜け落ち、体に斑点が出たら助からないとか…。その噂通り、妹は髪の毛が抜け、体に斑点が出来、歯ぐきから血が出て、血便も出ました。そして痛い痛いと苦しんだあげく、息を引き取りました。母はその後、一週間程たって体中に斑点が出来て、小浜の病院へ一ヶ月入院しましたが、おかげ様でそれから五十年間生きのびることができました。
 弟と妹は原爆が落とされる一年程前から鹿児島県に疎開していました。私は寂しさもあって母に「二人を迎えに行きたい。」と言うと母は「二人共鹿児島に友達も出来ただろうから帰りたくないと言ったら置いてくる様に」と言いました。迎えに行ったところ、弟も妹も「友達も出来たから帰りたくない。」と言い、二人を預っていた祖父母も、長崎へ帰ることに反対しました。
 私は死ぬ時は家族一緒に死にたいと思い無理やり連れて帰りました。
 原爆落下の四ヶ月前のことでした。その弟、妹、二人が原爆で死に、私は生き残ってしまったことで「私が死ねば良かったのに。」と胸をえぐられる様な辛く苦しい日々でした。今でも毎日、弟、妹、そして両親に「ごめんなさい。あの時無理に連れて帰らなかったら 死ななくて済んだのに 本当にごめんなさい。」と仏壇の前に手を合わせております。
原爆が落ちた跡は七十年間は草木も生えぬと言われていましたが、驚いた事に翌年には草も木も芽を出し、長崎の街は生き返ったようでした。
 それからの長崎はどんどん復興、発展し、今では当時の面影はどこにも見いだせないほど綺麗な街になりました。夫も特別被爆者ですが、原爆のことを話合ったことは有りません。私は戦争のニュースや映画等をまともに見ることが今もできません。
原爆のことも最近になって孫達に少し話をした位です。私達が今日あるのは、たくさんの尊い犠牲者のお陰なのだということを、忘れないようにしたいと思います。二度と戦争を繰り返してはならないと言うことを、全ての人々に伝えたいと思います。
 原爆の体験者が年老いて、語り継ぐ人達が年々少なくなってる事を知り、私も原爆の恐怖や悲惨を書き残そうと思いました。そして五十年間原爆の話をした事がなかったのですが、被爆五十年の節目を迎え、ひとりでも多くの人達に戦争の恐ろしさと平和の尊さを語りつぐ決心をし、語り部になりました。
 お寺さんがたまには墓に風を入れた方がいいですよと言われ、最近骨つぼを開けてみてびっくりしました、原爆で死んだ弟や妹の骨は真黒で消し炭みたいになっていました。普通の病気で死んだ人のお骨はピンクがかった白の綺麗なお骨でした。
 原爆の閃光が骨のずいまで食い込んでいたのかと、今更ながら驚くと共に、原爆病におびえています。
いま思うと昔の建物は学校とか大学病院位が鉄筋建で、ほとんどが木造の家でしたから、燃えるのが早かったのだと思います。
 数多い犠牲者の御冥福をお祈り申し上げると共に、若い世代の人々に戦争を二度とくり返すことのないよう、平和の尊さを永遠に守って頂きたいと祈念致します。

永野 悦子 氏