日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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武雄市

戦争体験記

戦争の記憶を未来へ繋ぐ使命

錦織 幸徳 氏

 錦織さんは当時十歳、長崎で技術者として働いていた父とともに、家族8人で暮らしていました。原爆で焼き尽くされた長崎の街での恐ろしい体験をもとに、戦争の悲惨さを後世に伝え、平和の大切さを訴え続けています。
 戦争を体験した人の話を聞いて、戦争の恐ろしさを知り、戦争に向かわない時代を作っていかないといけません。原爆が落ちてから80年が経とうとしていますが、亡くなった人たちの命は本当に尊いものです。70年以上も原爆を使わず、戦争せずに来たから「もう大丈夫だ」と思うのは、絶対にいけません。この思いはずっと伝えていかなければなりません。
 戦争の恐ろしさを知らない人が増えてきては、亡くなった人たちの命が浮かばれません。亡くなった人の命が大事だと思うなら、その思いを次の世代に繋いでいかなければいけません。私たちの上の世代はもう語れなくなり、私たちの下の世代は戦争の恐怖を直接知る人たちが少なくなっています。だからこそ、今、私たちが伝えるべきだと感じています。この気持ちを一人でも多くの人に伝えなければならないと常に思っています。
  子どもたちに戦争のことを話すと、現実とあまりにもかけ離れていて、「本当にそんなことがあったの?」という反応が返ってきます。特に男の子は驚き、女の子は怖がってあまり聞きたがらないこともあります。
 昭和20年8月9日午前11時2分、夏の晴れた空でした。私は爆心地から4kmほど離れた防空壕にいました。空襲警報から警戒警報に変わったので、弟と妹に少し外の空気を当てさせようとして一時的に外に出た瞬間、原爆が投下されました。一瞬、辺り一面が真っ白にピカーッと光り、慌てて弟と妹を防空壕の中に放り込み、自分も防空壕に走りました。何事かと外をのぞき込んだら、だんだん黄色いような異様な空の色になり、とても恐かったことを覚えています。
 長崎は広島より山が入り組んでいたのが助かった要因かもしれません。広島では爆心地から4kmでも大人が吹き飛ぶほどの威力があったといいますから。
 当時、父は三菱の工場で技術者として働いており、一番上の姉は女学校に通っていましたが、軍需工場の仕事に動員されていて、爆心地の近くにいました。
 原爆が投下された日の晩、父は足を負傷し、背中にガラス片が刺さったままの状態で担がれるように杖をつきながら家に戻ってきましたが、姉は帰ってきませんでした。父は、自分もけがをしながらも、翌日から原爆で焼き尽くされた長崎の街で姉を探し回りました。私は母から「お父さんを迎えに行ってくれ」と言われて、兄と一緒に燃え盛る街を歩きました。街では荼毘に付している所があり、あちらこちらで火が燃えていました。
 姉は1週間経った後に、けがはありましたが無事に帰ってきました。姉が走り込んだ病院では看護師さんがまるで自分のことのように一生懸命になって救護活動をしていました。姉は、そこで身体にいっぱい刺さっていたガラスを抜いてもらいましたが、あそこが痛い、ここが痛いと後になっても言っていました。
 長崎市内は何日も火が燃えていました。夜になると、頭の上まで火の粉が舞っているのが分かって、本当に恐ろしい光景でした。
 防空壕には、老人と小学生以下の子ども、それから病人しか避難することができませんでした。大人や中学生は家を守るため、床下に穴を掘り待機しなければいけない決まりがありました。家の庭先には砂と水を用意し、焼夷弾が落ちたら砂を被せ、爆弾が落ちたら水を被せなければなりませんでした。
 親が防空壕に入ることができないため、私が、弟や妹を連れて逃げ回ったとき、石段を登る途中で妹とはぐれてしまいました。逃げる途中、機銃掃射を受けた人があちらこちらに倒れているのを見ました。B29のような大きい飛行機が機銃で狙って撃ってきました。私はあと2、3段で石段を登りきるところで、真正面に飛行機が来たから、バーンと飛んで伏せました。伏せた頭の近くを機銃掃射されました。その時は、子どもながらに地獄でした。
 逃げ延びた先の防空壕では、年寄りも子どももわあわあ泣いていました。私は、妹を見つけないといけないと思い、防空壕を探しました。すると妹は別の防空壕から走ってきたものですから、その時は一安心しました。
 罪のない多くの人々が一瞬で命を奪われました。平和であれば、彼らは今も生きて、良い生活を送っていたはずです。70年以上も戦争せずに来たから「もう大丈夫だ」と思うのは、間違っています。いつまで経っても亡くなった人たちの命の尊さを守り続けていかないといけません。だからこそ、私たちがその命の尊さを次の世代に伝えていかなければならないのです。
 戦争を経験した私たちが語り継がなければ、戦争の記憶は風化してしまいます。そして、また同じような悲劇が繰り返されてしまうかもしれない。それが一番恐ろしいことです。だからこそ、私は今も平和への願いを強く抱いています。
 私はこれまで、核廃絶を目指す活動をしてきました。武雄市原爆被害者友の会として、原爆の恐ろしさと平和の尊さを伝えるパネル展を開催したり、多くの子どもたちに私が体験した戦争の話をしてきました。原爆被害者として、もう二度と同じ悲劇を繰り返してはいけないという強い思いがあります。私たちが生きているうちに、なんとか核を廃絶することができればと願っています。
 令和6年10月、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞に選ばれました。彼らの核兵器のない世界を実現するための努力が評価されました。核の拡散を防ぎ、最終的には廃絶することが私たちの目標です。私たちの世代でそれが実現するのは難しいかもしれませんが、次の世代にこの思いを託したいと思っています。2世、3世の人たちが、私たちの願いを受け継いで、核のない平和な未来を築いてくれることを願っています。それが私たち原爆被害者の一番の願いです。
 戦争は絶対にしてはいけない。小さい頃からそう思って生きてきました。せめて、動ける間に一人でも多くの人にこの話を伝えたいと思っています。それが、私たち原爆被害者の使命だと思っています。

錦織 幸徳 氏