高知市
戦争体験記
ぼくの見た高知大空襲
昭和20年7月4日午前2時のことです。真夜中にドラム缶を叩くような音が響き,「空襲警報,空襲警報」という声で起こされました。当時は「灯火管制」と言って,毎晩町じゅう真っ暗にして寝ていましたが,その日は「空襲警報」と聞こえたとたんに部屋の中が昼間のように明るくなりました。電気の色でもおひさまの色でもない,見たこともない青白い光。子どもの私でも「これはただごとではない」と思いました。
空襲時の家族の役割は決めていました。父と兄と姉は家の消火,母は私と妹を連れて,近所の共同防空壕へ逃げました。30~40人が入れるくらいの大きな防空壕でしたが,すでにたくさんの人が入っていたうえ,後から後からどんどん人が入ってきました。私も暑い中我慢をしていましたが,息苦しくてたまらなくなり,必死に止める母の手を振り切って家まで走って帰ってしまいました。
家で一生懸命火を消していた父に,「ここは危ない!鏡川へ行け!」と言われたので,姉と2人で川へ走りました。土手まで来た時に初めて空を見てびっくりしました。飛行機がたくさん飛んでいて,次々と焼夷弾を落としています。それは花火大会のようでとてもきれいでした。
私は「お母ちゃん,お母ちゃん」と泣きながら,人がたくさんいる川岸をさまよいました。土手の向こう岸も火の海で,家々が燃えているのが見えました。川の中にも逃げてきた人がたくさん入っていましたが,焼夷弾は川の水面でもあちこちで燃えながら流れていました。どこへ行けばいいのか分からず,あっちへ行ったりこっちへ行ったりしていましたが,あんなにたくさんの人混みの中でも父は私たちを見つけてくれました。
父と兄と姉と私で河原にいると,目の前を火だるまになった人が走り抜けて川へ飛び込みました。皆がすぐに助けて戸板へ乗せました。父はこの人が誰なのかすぐに分かりました。その人はあの共同防空壕の責任者だったのです。虫の息のその人に,皆が口々に自分の家族の安否を聞きました。父も「防空壕にまだ人はおったか?」と大声で聞きました。その人はしっかりとうなずいて応じてくれましたが,間もなく息を引き取りました。わずか1時間余りの空襲でした。
朝になりました。燃えるものは全て燃えてしまい,まだ真っ黒な煙があちこちから上がっています。一番心配だったのは母と妹のこと。まだ地面が熱いうちに共同防空壕へ向かいました。防空壕の屋根にあたるところが潰れて,煙が出ていました。
みんなで防空壕の出入口のところを掘り始めました。すると,そこに人の頭らしきものが出てきたんです。真っ黒に焦げていました。そのうち兵隊がスコップを持ってきてどんどん掘り進めると,その下にも人がおる。その下にもまた人がおる…というように出入口のところにずらずらっと重なったような感じで出てきました。みんな男か女かも分からない,炭のような状態でした。
そこへ軍のトラックが来ました。すでにたくさんの遺体が積まれていたところへ,ここの遺体をどんどん,投げるように載せていきました。下の方で母と妹が出てきました。母は近くで見ても顔が分からないような状態でしたが,着物がまだ一部残っていて,さっきまで一緒にいた人だったので,その着物の柄でわかりました。そんな状態で見つかって,私の目の前でトラックにボンと積まれました。
トラックで運ばれた遺体は,鏡川南岸の旧市営補助グラウンドに集められ,並べられていました。記録によると200人くらい並べられていたそうです。そこで家族を見つけても,連れて帰る家がない人は印をつけて帰りますが,何もないので竹を割ってその内側の白いところに燃えかすで名前を書きました。私たちも母と妹を見つけて印をつけました。
空襲後,私たち4人が一緒に居候できる場所などなく,家族はバラバラになりました。でも私があんまり泣くので,引き取った親戚が持て余し,私はまた父と一緒に暮らせるようになりました。父はすぐに再婚し,何もかも慣れない中,新しい生活が始まりました。しかし,生活再建のために,毎日相当の無理をした父がわずか1か月で結核を発病してしまい,「子どもにうつしたらいかん」と子ども3人はまた別々の親戚に預けられました。そして父は終戦翌年に亡くなってしまいました。
父の死後,新しい母が3人を育てると言って呼び戻してくれたことにはとても感謝しています。子ども3人で新しい母を助けて頑張って生きてきました。けれど80年が経とうとしている今でも,あの防空壕の場面を思い出すと涙があふれてきます。
高知県で集中的に空襲を受けたのは高知市ですが,日本中で毎日のように空襲があり,一晩にいくつもの都市がやられたこともありました。また,戦争で亡くなった日本の兵隊さんは,その多くが日本から遠く離れた島々で亡くなり,その60%は食べるものがなくなって餓死したと言われています。
でも,戦争で犠牲になったのは日本だけではありません。日本人がアジアの国々に侵略し,中国の人たちを虐殺しました。先に日本が攻めていったからやり返されたのです。犠牲者の数は中国の方がずっと多いということを忘れてしまっては戦争の事実をきちんと伝えることはできません。
終戦後,日本は憲法を作って,戦争をしないようにしてきました。今まで戦争や平和について活動してきた人の思いを,戦争を体験していない世代の人にバトンタッチしていきたいと考えています。平和な日本であってほしい。子どもたちにもそういった世界を作ってほしいと願っています。
