高松市
戦争体験記
冬布団
戸祭さんは被災当時14歳、家族6人で逃げ出し、生き延びることに精一杯だった記憶、また、空襲後の生活苦の記憶を風化させないため、後世に伝える語り部として活動をしている。
昭和20年7月3日、その日は、太陽がギラギラと燃え、本格的な夏の始まりを感じさせていた。高松高女(高松高等女学校)へ編入した私は、一日中、勤労動員として栗林公園北門付近の芝生を開墾して芋を植える仕事をした。疲れた体には、西条市から送ってきたビワがとりわけおいしかった。姉と私は、いつサイレンが鳴っても逃げられるように玄関に一番近い部屋でモンペ姿のまま床に就いた。
ドドドドッバリバリッという音に目を覚ますと、防空頭巾をつかんで外へ飛び出した。紫雲山の空がパアッと明るかった。空襲だ!とうとう来た!二人は夢中で南に駆け出した。四、五十メートルほど走ってから、自分たちだけで逃げていたのに気づき、家に引き返した。父母と姉二人が玄関に出てきたところだった。父母や姉たちは、後の生活を考えて、貯金通帳や多少の現金を持ち出したかったのだ。私は押し入れから冬の掛け布団を引っ張り出し、姉に一枚渡し、自分も一枚持った。空いた手に軽い荷物を下げて、改めて藤塚町の方へ走り出した。
防火水槽で大布団を濡らしていると、消防士が、「家をほっといて逃げたらいかん。早う帰って家を守るんじゃ。」と怒鳴った。「爆弾か焼夷弾が落ちたんやで。」「真っ赤な火、見たんやで。」とおらび(大声で叫ぶ)返していると、空襲を知らせるサイレンが鳴り、そこここの家から人々が飛び出し始め、母たちも追いついて来た。
父が来ないのを母に尋ねると、母には早く行くようにと促し、自分は家の消火のために残ると言って動かなかったという。五十歳の母の足は、老化と神経痛で速く走れない上に、父のことを思えば逃げ足が重かったのではなかろうか。私は、父が早めに家を捨てて逃げてくれることを念じつつ走った。
焼夷弾が降り、火柱が立ち始めると、真ん中の姉は怖がって防空壕に入り込んで出てこようとしない。窒息死してしまうからと引っ張り出すのに苦労した。火の粉が降ってくると、だれかれとなく私の大きな布団の中に潜り込んでくる。ついにはその大布団を持ち去ろうとする人さえいた。私は必死になって「とったらいかん。」と叫び、大布団を守った。気丈な長姉は「ついておいでよ。」と言って一気に走った。頭には小さな座布団一枚、私たちが続こうとした瞬間、姉の走り込んだ家が焼け崩れた。「姉ちゃん、死んではいかん。」息をのむ私の目に、ふらふらと立ち上がって手を振っている姉が映った。「姉ちゃんだ!」私は母を、下の姉は中の姉を大布団の中に抱え込んで一気に走り寄った。見れば頭の中からは血が流れている。小さな座布団一枚が姉を救ってくれたのだ。
燃える家並みをくぐり抜け、一息ついたとたんに一番下の姉が「息がえろうて、よう走らん。うちをほっといて逃げてよ。」と言った。顔色は真っ青だ。「良子ちゃん一人ほっといて逃げられるもんな。おたあさんもここで一緒に死のうな。」母と二人で手を取り合ってうずくまってしまった。母の足も限界であった。しかし、自分から死に近づくなんて絶対に嫌だった。私は生きたかった。みんなにも生きていてほしかった。末っ子で甘えん坊で弱い私だったが、「くそっ、死んだりするものか。」と、体の中からぐっと力が込み上げてくるのを覚えた。「おたあさま!姉ちゃん!こんなところで死んでどうする。逃げよう。早く走ろう。」と、抱きかかえるようにして少し行くと路地があり、その先に空き地があった。助かるかもしれないと思うと身内がぞくぞくとした。父は無事逃げおおせただろうか。不安と安堵の交錯する中で東の空が白み始めていた。
キーンという音に空を仰ぐと、北の方から敵機がまっすぐ迫ってくる。私は布団をかぶって伏せたが、隙間から敵機をにらみつけていた。機首が上がったなと思った瞬間、ザザーとものすごい音がして、焼夷弾が空き地に向かって流れてくる。「北へ走ろう、危ない!」私の声に大勢の人が北に十メートル程移動した。逃げ遅れた親子が直撃でやられた。
敵機は正確なリズムで旋回した。私はそのリズムの中で機首が上昇する瞬間、正反対の方向へ逃げればよいことを知っていた。乗り物が急に止まっても、乗っている私たちが同じ方向へ進もうとするのと同じように、焼夷弾も飛行機の進んでいる方向に流される。南へ北へと、十メートル、十五メートルとはいずり回って助かった。怖がり屋の中の姉は一足遅く、大布団からはみ出て、火が髪の毛に燃え移り、顔半面のやけどをした。敵機が去ってから、麦の切り株が燃えているのを消すのに大きな布団が役立った。
父のことが気になる私たちは、すぐ焼け跡へ出発することにした。水を吸った大きな布団は二人で持ち上げても動かぬほど重かった。よくもまあ、こんな重いものを頭からかぶって走り回ったと改めて驚いた。父の生存は、通りすがりの知人が教えてくれた。母はそれを聞き終えぬうちに気絶してしまった。私はとめどなく流れる涙をぬぐうことも忘れて、母のために水を探しに附属小学校へ走った。

