大竹市
戦争体験記
学徒動員と広島被爆
市内に架かる橋は燃え、けがをした腕をかばいながら、川を渡るのはとても大変でした。
当時13歳、学徒動員として南区の大須にある工場で働いていました。8月6日の朝、いつもどおり工場についたときに原子爆弾が爆発しました。
私は、昭和20年4月に母と妹と母の実家がある玖波に移り住みました。当時私は13歳。広島市第一中学校に編入できたものの、学徒動員で南区の大洲にあるネジ切りの工場で働かされることになりました。「勉強するために学校に入ったのに」と、とても傷ついていました。
8月6日の朝、いつものように工場に着いたとき、『ドン』と大きな音が鳴り、爆風が吹いたのですが、原子爆弾が落ちたことを先生も含めて誰も知りませんでした。
とにかく家に帰らないといけないと思い、大洲から廿日市まで歩きました。帰る途中、広島市内に架かる橋が燃えていたため、川の中を歩いて向こう岸まで渡りました。爆風で飛んできたガラスでパックリ割れた腕の傷をかばいながら渡るのはとても大変でした。廿日市に着いたのは7日の午前1時頃。そこからは電車に乗り、無事家に帰れました。
その後、玖波の国民学校が救護所となり、たくさんの負傷者が運ばれてきました。それから毎日のように、死体を燃やす赤い炎が、家から見えていたのを覚えています。異様な光景でした。8月15日に玉音放送が流れたときは「やっと戦争が終わった…」という気持ちとこれからの期待でいっぱいでした。
だんだん被爆者の数が少なくなり、平和祈念式典を守り、当時の様子を語り継ぐことは我々だけでは難しくなってきています。行政として、平和をどう考え、どう訴えていくか、考える時期にきているのではないでしょうか。