福山市
戦争体験記
福山空襲 - 8月8日に体験したこと -
森近さんは福山空襲時7歳で、父母と5人姉妹の7人家族でした。霞町の自宅には、畳1畳ほどの小さな防空壕がありましたが、家族が避難し長時間過ごすには狭すぎました。1944年(昭和19年)1月に父が出征するかもしれないということで、少し安全な野上町の工場に移り、畳2畳余りの防空壕を造りました。
〇わが家の防空壕
1943年(昭和18年)秋に、父は本郷で栗の原木を買い、馬車を手配して持って帰り、製材のため熊野町の製材所に預けて帰りました。製材された栗の木は、父と職人さんで何度かに分けてリヤカーで持ち帰りました。そして、1944年(昭和19年)春に、父が設計し、職人さんを頼んで、畳2畳余りの少し大きな防空壕を造りました。避難して住んだ工場のある場所は、近くに川が多く地面を50cmも掘ると水がにじみ出たので、筵(むしろ)を敷いて水を防ぎました。栗の板は、掘った穴を取り囲むように使われていました。8月8日の空襲では、焼夷弾は不発弾でしたが、防空壕が私たち家族を守ってくれました。
〇当時の兵役(徴兵検査と出征)
1944年(昭和19年)5月末、父に召集令状が届きました。昼食後に真っ赤な紙を持って戻ってきた父は、夕食の際にそれを食卓の上に置き、「お母さんを助けて、みんなで頑張ってこの家を守ってくれ」と語りました。私は小学校1年生だったのでよくわかりませんでしたが、いつもだと、「お母さんの言うことをよく聞け。何でもお母さんの言うことが正しい。」というところが「お母さんを助けて…」となっていたことが印象に残っています。赤紙の色は、はっきりした赤い紙でした。この赤紙は、戦後見つかりませんでした。出征の際には親戚が見送りに来ましたが、2日目の夕方、広島から「アスカエル、チチ」という電報が届き、翌日父が帰宅しました。父は結核と誤診され、戦地に行かずに済みました。後に結核ではないことが判明し、父は65歳まで生き、母も90歳まで長生きしました。
〇「伝単」の投下
1945年(昭和20年)7月31日の夜、父は近所の人と話をしていてなかなか帰ってきませんでした。夕食のとき父は、明日朝「伝単」(空襲予告ビラ)を拾って見せてあげると言っていました。翌朝、父は米軍によって7月31日夜にまかれた「伝単」を拾い、家族に見せました。「伝単」は我が家の裏から芦田川の神島橋まで散らばっていました。その後、父はタンスの上のふすまに隠していましたが、こちらも戦後、赤紙と同様に見つかりませんでした。後に母が、父が焼いたと話していました。
〇 福山空襲当夜の我が家
1945年(昭和20年)8月8日夜10時過ぎに、福山で空襲警報が鳴ると、家族全員が防空壕に駆け込みました。父は「母さんの言うことをよく聞くんで」と言い残し、隣組の男性と集会所へ向かいましたが、すぐに戻り「やられた。もうだめだー!」と叫んで、防空壕に滑り込んできました。同時に、外からシューシューというけたたましい響きとともに耳を引き裂くようなズドン、ズシンという地鳴りがし、身体が揺れ、家族7人生きた心地がしませんでした。その時、近所の人が「森近さん大丈夫?」と防空壕の入り口から声を掛けてくれました。こどもたちは震えたり泣き叫んだりしていました。その時の父母の形相は忘れられません。当時3歳3ヵ月だった妹は、あの時のお父さんの声を覚えていると話していました。
夜中の12時少し前に父から母屋に戻るように言われ、防空壕を出ると、毎日眺めていた福山城が燃えているのが見えました。父は「福山はもうおしまいじゃー。城が落ちた」と嘆きました。その時、涙が流れたのを覚えています。その夜、姉と私は眠れずに夜明けを迎えました。5時半頃に外に出ると、防空壕のそばに不発弾の焼夷弾の痕跡がありました。焼夷弾は斜めに落ち、田んぼに突き刺さったようで、防空壕の栗の板が斜めに割れて、防空壕の東と西に飛び散っていました。焼夷弾の中身の油が混ざった土が隣の家の壁に飛び散り、日本地図が逆さになったような形で残っていました。近所の人が「これが戦争の跡だな」と見ていました。
姉と霞小学校に行ってみると、道三通りより南は焼けず、北は全焼していました。小学校の校舎も何もなく、自宅も焼け落ちていました。帰りに道三川の橋の上に置かれた泥まみれでずぶ濡れの布団に、亡くなった女の人がいました。姉は手を合わせて通りましたが、自分ははっきり見ませんでした。この空襲で死者355人、負傷者864人、市街地の8割が消失しました。
〇戦前、戦中、戦後の生活
戦時中の生活は厳しく、「贅沢は敵」とされ、生活必需品は切符制でした。戦後も物資不足が続き、闇市が広がりました。結婚の際には嫁入り道具を揃えるための切符が足りず、親戚や知人にお願いして切符を集める必要がありました。1950年には合成繊維が作られ始め、衣料不足は徐々に解消されました。
食糧不足も深刻で、我が家では小麦を作り、うどんや麦ご飯を食べていました。ヤミ米を買いに行くこともありました。終戦後、母は私を連れて新涯・箕島まで米や芋を買いに行き、重たい荷物を押して帰りました。母の必死の行動により、何とかこどもたちは食べることができました。
福山市の復興は早く、終戦翌年には市営住宅が建てられました。焼けトタンを壁に、波トタンを屋根に使って暮らしていました。父は困っている人を呼び、狭い家に5世帯が住みました。井戸を増やし、皆で分かち合って生活しました。
〇おわりに
戦争の辛い経験を忘れず、若者やこどもたちが平和を伝えていくことが大切です。科学が生んだ戦争を経験した私には、現在の世界で起きている戦争の状況が重なります。言葉で話し合うことで、安全な世界をつくり、子から孫へ平和を伝えていってもらいたいと願っています。
このように、私の経験を通じて、戦争の悲惨さと平和の大切さを後世に伝えていくことが重要だと感じています。過去の出来事を忘れず、未来に向けて平和を築いていく努力を続けていくことを願う一人です。