日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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三原市

戦争体験記

幼き日の体験

著者不明

 私が生まれた昭和12年は日華事変(日中戦争)の最中であったとのことです。それから数年後、昭和16年12月8日、日本軍がアメリカの真珠湾を攻撃してから、大東亜戦争(太平洋戦争という)が始まりました。
 そして昭和19年4月、私は北方国民学校に入学しました。当時は国民全体が戦争に勝つために一生懸命でした。あちらこちらにある工場も軍需工場にかえられ、中学生や女学生は学徒動員といって、それらの工場で、働かされました。成年の男子はほとんど戦場にかりだされていましたので、学生も勉強どころではなかったのです。国民学校には、初等科と高等科とがありました。初等科は年生から6年生まで、それを卒業すると高等科に入学し2年勉強します。
 高等科の生徒は体育の授業になると校庭に作られたワラ人形にむかって竹やりで胸を突く訓練です。口ひげをはやした兵隊さんが訓練を指導するために先生として学校に来ていました。
 「そんなへっぴり腰で敵が殺せるか!」
 「かけ声がなっとらん!」
大きなどなり声がようしゃなくとんでいきます。力いっぱいほっぺたをなぐられる者、涙をこらえ、歯をくいしばってがまんしている者…。あの光景はどうしても忘れることができません。
 私たち初等科の子どもも空襲にそなえて毎日のように避難訓練を行ないました。
 「空襲警報発令!」
 「全員、裏山へ避難!」
 「ガン、ガン、ガン、ガン……」
 早鐘がけたたましく鳴りひびきます。防空頭巾を頭にかぶると右手で左手の腕をつかんで教室から出ます。そうすることによって前の人を押し転がすのを防ぐ一つの方法として訓練にとり入れられていたのです。また、爆弾のさく裂にそなえ、耳と目を両手で強くおさえて地面に伏せる訓練もやりました。
 戦争がだんだんはげしくなって私が2年生になった頃、呉市内の国民学校から疎開児童がやってきました。心光寺、常徳寺、そして民家にそれぞれ分かれて宿泊していました。それまで40人位いた私たちのクラスはさらに増えて、45、6人にはなっていたと思います。
 田舎で育った私たちと比べて青白くやせ細った子どもが多くいたので、それをからかってよくけんかをやりました。今、考えてみると幼くして家族と別れ、ひとりぼっちで来ていたのです。高学年の人はともかく1年生や2年生は特別さみしかったことでしょう。どうしてあのときやさしくはげましてやらなかったのだろう。と、くやまれてなりません。
 (中略)
 学校から帰ると戦争ごっこです。近所の子どもが数十人集まって2組に分かれ、竹切れや棒切れを振り回したり、「徴用」といって芋畑から芋を取ってきて食べたり、すべて軍隊のまねごとをして遊んでいました。当時は大きくなったら兵隊さんになりお国のために戦うことを誇りとしていたのです。
 学校でも軍隊式であいさつも敬礼です。登校して門を入ると東側の「奉安殿」の前まで歩調をとって歩きます。そして、最敬礼をしないと教室に入っていけないのです。式のときは、校長先生が「奉安殿」の中から教育勅語をとりだされ、それを読み続けられる間中全員が最敬礼をしています。頭を上げると大目玉をくうのです。
 昭和20年7月の暑い日だったと思いますが、私の兄が忠海中学校から志願兵として予科練に入隊することが決まりました。父母は兵隊にだすことで大変悩んだそうです。しかし、お国のためとしぶしぶ承知したのです。
 兄の出征する前の晩、友達が大勢集まってお別れ会を開きました。日の丸の旗を広げ、友達全員が自分の指を切り、その血ではげましのことばを書いて兄に持たせたことを覚えています。
 翌日、兄は友達や大勢の近所の人々を前にして、
 「私は、敵を打って打って打ちまくり、必ず国のためにつくしてきます。」
と、力強くあいさつして出征していきました。父母の目には涙が光っていました。まだ15、6歳の兄を戦争で殺させたくなかったのでしょうか。
 夏休みをむかえた8月6日の全校登校日、講堂に集まって先生の話を聞いているときでした。外は太陽が照りつける暑い暑い日でした。と 「ピカッ!」
フラッシュをたいたような光が走りました。それが何であったのか、そのときは予想だにつきませんでした。
 翌日、広島に「ピカドン」が落とされ、焼け野原になったことを知らされました。さあ大変です。北方から広島に行っていた人はたくさんいました。親類もありました。それらの人々はどんなに心配だったことでしょう。安否をたずねて多くの人々が広島へと急がれました。
 そして、その結果はほとんどが悲しい知らせばかり、無事であった人は少なかったということです。私の近所に学徒動員で広島に行っておられた人が全身やけどで帰ってこられました。目も鼻もどこにあるのかわからないように包帯でつつまれて、
 「痛い、痛い、苦しい、苦しい」
と言っておられたその声が今も耳の底に残っています。
 それがおそろしい「原子爆弾」であったことを知ったのは戦争が終わってずっと後のことでした。広島市にはもう人も住めず、草や木も育たないのだとうわさし合いました。
 こうして、日本の都市という都市は焼きつくされ、昭和20年8月15日、やっと終戦をむかえました。
 戦争に負けた9月頃、ジープに乗ったアメリカ人が茅の市にやってきました。物陰にかくれておそるおそる見る私達の前に現れたのは背が高く、鼻の高い青い目の人間でした。私はまだ幼かったので外人はみな鬼だと思いこんでいたのです。
 今、こうして、体験記を書きながら私の育った少年時代は何か大切なことが教えられなかったのではないかという気がしてなりません。
出典:本郷の昔話(生活・戦争体験編)、本郷町昔話編集委員会/編、本郷町民主教育研究協議会/発行、1978年