日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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戦争体験記

二日市町空襲と戦後

吉永 隼人(よしなが はやと)氏

1938(昭和13)年2月生まれ。1945(昭和20)年6月29日に、岡山市二日市町(現・岡山市北区二日市町)で空襲に遭う。空襲当時は満7歳。両親と祖母、姉、兄、2人の弟の8人暮らし。
空襲のとき、父は焼夷弾によって燃え始めた火を消すため家に残り、母と祖母、自分を含めた姉兄弟5人が、家財道具を載せたリヤカーで南の方角に逃げた。目覚めたときのことは覚えておらず、夢中で逃げたことだけを覚えている。
 リヤカーを引いたのは、まだ若かった母で、35歳くらいだった。リヤカーに乗ったのは、祖母と1歳になる弟、そして、心臓が弱かった4歳になる弟の3人で、14歳になる中学生の姉と、国民学校(現在の小学校)5年生の兄と自分がリヤカーを押したように思う。空襲があったら、どの方面に逃げるという事を、父母たちはおそらく事前に決めていたのだと思う。
 自分たちは、現在の岡山県立岡山南高等学校(岡山市北区奥田)の方角へ逃げた。広くない道を通りながら、小川を渡ったように思う。青江を通り福田のほうまで逃げた。そこには知り合いがいたので、そこで一晩泊めてもらったように記憶する。逃げる途中は、リヤカーに付いてゆくのに精いっぱいで、空襲による火事も、その音も覚えていない。
 家族に大きな被害はなかったが、1歳の弟が、焼夷弾の破片を腕に受けて、腕一面がやけどになり、その跡が今でも残っている。逃げおおせた福田のあたりで、自分は小川に飛び込んだそうである。熱かったのだろうか、怖かったのだろうか。自分は覚えていないが、今でも姉などに笑われる。
 翌日、二日市の家まで帰った。リヤカーで半日くらいかかったと思う。旭川沿いの十日市や二日市を通って帰ったのだが、あたりは焼け野原になっていて、真黒になった死体も見た。家に帰ると、家は全部焼けていたが、父と会うことができた。家の中に防空壕を掘って、その中に貴重品を入れていたが、全部駄目になっていた。満州へ行ったおじからもらった、足首まである革の長靴も入れていたが、だめになり今でも残念である。
 家の裏に、岡山県水産業会(現・岡山県漁業協同組合連合会)の冷蔵庫があって、そこを開けると魚が蒸し焼きになっていた。食べ物がないので、近所の人たちと食べたが、醤油も塩もないので味がしなかった。
 家は八百屋をやっていたが、父は当時43歳で、船乗りでもあった。岡山空港(現・岡南飛行場)を作るため、海を埋め立てる土砂を運搬する作業をしており、それが国策だったのだろうか、戦争に行かなくてすんでいた。
 空襲の翌日だったと思うが、父が船を調達してきて、一家はその船で旭川を下り、西大寺の正(まさ)儀(き)まで行った。船は普通の渡し船より少し大きいぐらいで、長さは7、8mぐらいだったろうか。正儀には父方の祖母の家があった。大体4間、今でいうと4LDKぐらいの家で2階建てだったと思う。そこに自分たち8人と、やはり空襲で焼け出された親戚2家族、合計15人がそこで生活した。そこは農家ではなかったので、田んぼがなく米がとれず、食べるものには随分苦労した。畑が少しあったので、カボチャやサツマイモなどを作って自給自足のような生活をした。父は岡山に戻り、大工の仕事も少しできたので、大工仕事をして稼ぎ、そのお金などで全員の世話をしてくれた。今でも父には大変感謝している。
 8月15日の終戦の放送は、正儀で聞いた。家の中で、ラジオの前に集って皆で聞いたが、何を言っているのかよくわからなかった。
 終戦の翌年の3月に、父は元の家の場所に小屋を建て、家族を呼び寄せてくれた。リヤカーに荷物を積んで東山の峠を越えて帰った。荷物を積んでいるので1日かかったと思う。両親は、窓のところに台を作り、ミカンなどを並べて商売を始めた。魚市場が近くにあり、大勢の小売業者が買いに来ていて、その食事の材料の野菜を売ることができた。飛行場を作る作業はなくなっていたので、父は八百屋に専念した。福田の知り合いから野菜を仕入れて商売にしていたと思う。次第に、岡山の市場が機能し始め、深柢小学校のところに中央卸売市場があったので、自分たちも自転車に乗れるようになるとよく野菜を取りに行った。
 二日市へ帰ってきたときは、ドラム缶を屋外に出し、風呂にしていた。まだ一面焼け野原で、風呂から駅前までずっと見通せた。
 実家が八百屋でもあり、そばには魚市場もあり、戦後は食べ物に苦労するということはなかった。
 毎年、6月29日は、岡山空襲を忘れないように子どもたちにお粥をたべさせていた。日本人は、まだアジア・太平洋戦争について総括できていないのではないか。日本が、空襲などで大きな被害を受けたと同時に、加害者になったこともあるということは忘れないようにしないといけないと思う。まずは、学校教育の場で、戦争の歴史をしっかり教えることが大切だし、また、成年になったら、選挙の投票に行き、政治にかかわることが必要だと考える。

吉永 隼人 氏