日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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伊丹市

戦争体験記

終戦とともに始まった10歳の戦争~荘司幸子さんの引き上げ体験~

荘司 幸子 氏(しょうじ ゆきこ)

 荘司さんは終戦当時10歳、家族とともに満州(中国)で穏やかに暮らしていました。しかし、満州の日本人にとって終戦は戦いの始まりでした。日本人が追われ命を奪われる中、荘司さんは家族を失いながらも日本へ引き揚げます。帰国後は伊丹ユネスコ協会で中国残留孤児への日本語習得事業に尽力し、同会会長を経て、現在は名誉会長を務めておられます。

満州での平和な日々
 終戦の日。昭和20年8月15日から80年を数えます。当時、私は満州国・奉天(ほうてん)(現在の中国・瀋陽(しんよう)市付近)の葵(あおい)国民学校の4年生、10歳でした。
 家族は父と祖父母と子どもが3人、11歳の兄・7歳の弟と私です。母は私が5歳の時に亡くなっています。私達は母のいない寂しさも感じないほど祖母の愛を受けて育ちました。
 父は南満州鉄道(満鉄)の社員で、4戸1の社宅に住んでいました。1戸建ちは重役級用、2戸1は課長級用、4戸1は平社員用であったようです。間取りの中心にペチカ(暖房と調理を兼ねた設備)があり、その周りに畳の間が3部屋ありました。お風呂も冷蔵庫も無い暮らしでしたが、元気一杯に戸外で遊び、真っ赤な太陽が西へ沈む頃、子ども達はみんな庭先で足を洗い、家に帰るのでした。

終戦後、新たな戦争の始まり
 日本国は昭和20年8月15日を以って終戦。しかし、満州ではこの日から新たな戦争が始まったのでした。
 「日本は戦争に負けた!日本人は出て行け!」これまで日本人に虐げられていた満州の人々の復讐が始まり、昨日までの安全な社会は消滅し、無法社会と化していました。夜が明けるとあちらこちらに殺された日本人の遺体が見られるようになりました。私達は息を潜めて暮らしていました。
 満州の冬は早く、ペチカ用の石炭の調達もままならず、食糧も乏しい日々でした。そんなある日、カーテンの隙間から、ぼろぼろの青い服を着たソ連兵が大勢列をなして通って行くのが見えました。シベリアからの囚人の部隊だったようで、その日から日本人の家に押し入り略奪を。腕時計を両方の腕に。モノだけでなく若い女性は連れ去られるので、天井裏に息を潜めて隠れていました。
 しばらくして街にソ連軍の部隊が入り、秩序もいくらか落ち着きました。そのような暮らしの中でも、父は満鉄へ出勤していました。途中でソ連兵に「ダワイ!(早くしろ!)」と連れ去られて、ジャガイモの皮むき、水汲みなど雑用をさせられたそうです。仕事が終わっても無事に帰宅できる保証はなく、家族は心配な日々でした。

力の無い祖母や赤ちゃんたちの死
 翌年の秋、体力の無い、弱い祖母が何の治療も受けられずに、日に日に弱っていきました。祖母の遺髪と爪を残し、亡骸(なきがら)は祖父と兄が布団で包み荷車に乗せて運んで行きました。今も中国の大地のどこかに眠っているかと思い出すと涙があふれます。
 同じ頃、満州北部地方から飢えと寒さの中を歩いて、歩いて多くの日本人家族が奉天に辿り着きました。おんぶされた赤ちゃんはお母さんの背中で息絶えていました。お寺の境内に穴を掘り、何人もの晴れ着姿の赤ちゃんがお人形のように並べられ、土をかけられました。

日本への引揚げ
 満鉄社員は「引揚げ組」と「中国残留組」に分けられ、残留組であった父は結核に罹患していることがわかり、急きょ引き揚げることになりました。9月下旬の寒い朝、ぎゅうぎゅう詰めの貨物列車に乗り、奉天を離れました。列車は度々停車させられ、その都度、満州の人々の要求に対処させられたそうです。ついには列車が動かなくなり、全員が歩くのみでした。父は熱がありトラックに乗せられました。荷物は、兄と私が背負う麻袋のリュックサック、弟は母のお骨が入ったリュックサックでした。屋根があるだけのその夜の宿舎、リュックサックで自分達4人の場所を確保しました。
 ようやく、乗船場のある葫蘆島(ころとう)(中国の港町)に到着。米軍兵が銃を持ってはいるが、子ども心にも、これで、もう殺される心配はないと感じました。頭からDDT(シラミ等対策の殺虫剤)をかけられて大きな病院船に乗って日本へ向かいました。ある日、甲板で大人達が「島影が見える」と。長崎県・佐世保市の収容所で1人に千円を頂き、祖父母と両親の故郷である福島県へ向かいました。しかし、父は直ちに宮城県の国立結核療養所へ入院、20日後に亡くなりました。その後、私は伊丹市の父の従兄弟の元で育ちました。兄は叔父のいる名古屋へ、弟は取材に来られた新聞記者さんにもらわれて行きました。

引き揚げることができなかった人々を支える今
 1972年、日中国交正常化により、満州から引き揚げることができず、親と生き別れ、死に別れて中国人の手で育てられた多くの中国残留孤児が親を探しに来日したことを新聞・テレビの報道で知り、大きなショックを受けました。日本人でありながら、日本語が話せない、分からない人がいることを知りました。
 当時の伊丹ユネスコ協会は、三宅(みやけ)梢(こずえ)会長の下「直ちに日常会話の支援を」とボランティアの日本語教室を開設し、私も教室で日本語を教えたり、生活相談に乗ったりしました。今では、私の人生の半分をこの教室と共に活動させていただいたことを感謝しています。

心の中に平和のとりでを
 UNESCO(国際連合教育科学文化機関)憲章前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と謳われています。
 いま世界では、厳しい治安情勢に脅かされている国々があります。今こそ、人々の心の中にこの精神が届き、世界平和の実現に繋がるよう望みます。

荘司 幸子(しょうじ ゆきこ) 氏