羽曳野市
戦争体験記
9歳の戦争体験
田原弘子さんの人物紹介
昭和 10年生まれ。 大阪市内で「粟おこし」業を営むご家庭で育たれ、戦局が激しくなる昭和19年に学童疎開、昭和20年の大阪大空襲を体験されました。
ゴーッゴーッ異様な爆音、何百機ものB29が空を真っ黒に埋め、雨霰のように焼夷弾をばら撒く、町は次々と炎に包まれた。
昭和20年3月13日、14日大阪大空襲のとき、父は戦地。私は9歳、母と5歳の弟、3歳の妹の4人家族だった。
港区市岡で「粟おこし」の店を経営。だが当時材料がなく開店休業。とにかく物不足、金属類はみな供出した。登校しても勉強どころか警報のたびに帰宅。昭和19年戦局は激しくなり、夏頃には学童疎開が始まる。
石橋に縁故疎開した。右も左も田畑、広い道が一本遠くまで続いていたのが印象に残る。学校では「大阪の子」とからかわれ、遠縁のおばさんには、9歳では荷が重い家事労働をさせられた。また、トィレは屋外で夜は土間に置いた肥桶に。イヤだった。
学校帰りには機銃掃射に狙われ、農具小屋に駆け込んだ。動く物(人)を見ると、かなリ下へ降リてくる、死ぬと思った。淋しく心細く、無性に母に会いたくて気が付いたら石橋駅にいた。「大阪へはどれに乗るの?」と聞き、やっとの思いで家にたどり着いた。母は「長い道のり一人でよく帰ったね。死ぬときは一緒がいい」と言った。
その年も暮れ頃には空襲の回数も増え、決まって宵、夜中、明け方と、その度に外の防空壕に入る(家の壕では情報が入らない)。私はいち早く飛び出し場所を確保、ぐずぐずしていると入れない。寒い日には壕の蓋は凍りついて開かない。食糧不足でシャブシャブのお粥、具のない雑炊にお鍋を持って長蛇の列だ(当時飲食店が配給所)。
そして運命の日、昭和20年3月14日未明、壕の中で爆音と焼夷弾のヒューッといぅいやな音を聞く。警防団の人たちが「中にいると蒸し焼きになるぞ」と触れ、慌てて400~500メートル離れたお寺まで、母は妹を背に私は弟の手を引っ張り、必死で走った。焼夷弾は容赦なく落ちる。小高い寺の境内から炎に包まれた町がよく見えた。皆、呆然と立つ。
何時間経ったか、夜明けと共にザーッと雨が降る。よく言う「大火に雨」だ。家が焼けた私たちは、例の石橋に行くしかなかった。まだくすぶる家々、電柱が焼けただれ、防空壕の入口で折リ重なって人が死んでいる、馬が狂乱状態で暴れている(当時は荷馬車が多かった)。阪急電車は動いていた。猛火の町をくぐり抜けて顔は真っ黒、目は真っ赤、石橋駅で救護班の人が顔をふき目薬を入れてくれた。
神戸、四国と親戚を頼リ、やっと徳島県鴨島に落ちついたが、ここも大変だ。学校からヨモギ1キログラム、桑の木皮1キログラムの強制供出を言われた。級友とその家族に助けられ何とかできた。徳島市にも大空襲、家の窓から焼夷弾の雨、真っ赤な空が見える。学校は避難所になり、その姿は目を覆った。火傷の薬もなく傷口は暑さでウジが湧いた。私たちはどうすることもできず、ただ食物を運び、慰めの言葉をかけた。間もなく終戦。
今、物が溢れ何不自由なく暮らせる幸せを、若い世代の人は感謝すべき、またあの苦しい時代を経て今があることを!!