八尾市
戦争体験記
大阪空襲と地下防空壕
南艸さんは、1938(昭和13)年2月、大阪市港区(今の弁天町付近)で軍需工場を営む家庭に生まれました。南艸さんは、祖父母、ご両親、妹、弟の7人と犬、ウサギ、七面鳥、小鳥などたくさんの動物に囲まれて生活していました。「武士機」と名付けられたドーベルマンと一緒に暮らしたこともありました。子犬のときに来た「武士機」は、何年間か南艸家で育てられ訓練を受けたのち、戦争に連れていかれ戻ってくることはありませんでした。
南艸さんの体験記
戦争体験というと、大阪市で体験した大阪大空襲、八尾市で見た艦載機を思い出します。大阪大空襲が起こる少し前、私は奈良県の西大寺に母・妹・弟・いとこ一家と疎開していました。私は当時小学1年生でした。小学校より、「疎開先より戻ってこられる人は、3月14日に実施する6年生の卒業式に参加してほしい」と連絡があり、3月13日に実家へ戻りました。大阪大空襲は、この日の夜に起こりました。
空襲警報が鳴り響き、いつものように身支度を整えると、自宅の地下室にある防空壕に逃げ込みました。自宅の防空壕は、大人でも立つことができるほど、大きなものでした。防空壕で身を潜めていると、警防団に所属している父が飛び込んできます。「今夜は焼夷弾が多すぎる。ここにいたら蒸し焼きになってしまう。早く外へ逃げろ!」そう伝えると、すぐに隣家へ同じことを伝えるために走っていきました。そこで、母は背中に弟を背負い、祖父と妹が手を繋ぎ、私は祖母と手を繋ぎ逃げることになりました。玄関に立ちドアを開けた瞬間、目の前の家に焼夷弾が落ち、炎が上がります。大人たちは、私と妹を玄関の敷居に立たせ、「ここで待っときや!」と伝えると、消火に走りました。私は妹の手を握り、妹も私の手を痛いほど強く握り返していました。幸い火はすぐに消え、大人たちは早々に戻ってきますが、少しの時間とはいえ、大人たちと離れるのはとても怖く不安な気持ちで、今でもはっきりと覚えています。
自宅周辺に火の手は上がっていなかったのですが、家族一同、36間道路と呼ばれていた大通りに出ました。その大通りに面した家々は、もう既に燃えていました。ご近所の方の中には、大通りに出て来ているものの、自宅が燃えていないことから、しばらくじっと立ち止まっている人もいました。私のいとこ一家の自宅は、大通りに面していたため、既に燃えていましたが、無事に合流できました。叔母は、末の子を背負い、3歳の子を抱きかかえ、7歳の子と手を繋いで逃げていました。母も叔母も背中にいる子をしきりに気にしていました。火事により燃え上がる火の粉がふりかかり、知らぬ間に背中の子が焼け死んでしまうことがあったそうです。しばらくすると、私の妹の服に火の粉がふりかかり、煙が立ち上ります。当時の衣服は真綿です。すぐに燃え上がってしまうため、妹は近くにあった用水槽(火事が発生した際に、火を消すためのもの)に体ごとつけられ、なんとか焼けるのを免れました。逃げているとき、叔母が近所の人に「背中の子は今生きているが、前に抱いている子を優先にした方がいい。前の子は大きくて歩くことができるから、生きていくことができる。背中の子は、諦めた方が良いのではないか。」と諭されていました。当時は、大人でさえ生き抜くことが大変な時代であったため、生きぬく可能性が高い子を優先し、難しい子は切り捨てる、そうでなければ、みんな死んでしまう。そんな時代でした。分かってはいましたが、私にとっては、とても悲しい思い出として残っています。
私たちは、約13km先に住んでいる親戚を頼りに逃げ回りました。焼夷弾が落とされた場所には、すぐには次の焼夷弾は落とされません。私たちはそれを知っていたので、炎に包まれた大通りを、焼夷弾が落ちた場所を追いかけるようにして進んでいきました。親戚の家に着いた頃には、夜が明け、空襲警報も鳴りやんでいました。親戚の家は、救護所になっていました。私は、医療従事者に目薬をさされました。とても痛かったのですが、「空襲の火の粉で目がやけどしているので、目薬をささないと、失明してしまう」と言われ、痛みに耐えて目薬をさしてもらいました。
その後も空襲は続き、自宅は焼失。同じく自宅を無くしたいとこ一家と一緒に、昭和20年5月に、八尾市の東端にある郡川に引越しました。八尾では、艦載機がよく飛び回っていたため、屋根のないところには行ってはいけないと大人から注意を受けました。私は八尾でB29を見かけることはよくありましたが、艦載機はあまり見かけませんでした。そしてB29は焼夷弾を載せて大阪市を目指していました。八尾に爆弾を落とすことがないため、飛行機を見てもあまり怖いと感じなくなっていました。ある日、自宅の庭で夢中になって遊んでいると、飛行機の音が聞こえてきました。しかし、すぐには、逃げませんでした。「この飛行機は、どうせB29で大阪市に行くのだろう」と思い込んでしまっていたのかもしれません。はっと気づいたときには、飛行機は自宅の屋根すれすれを飛んでおり、飛行機の乗組員の顔、青い服がはっきりと見えます。その飛行機は、艦載機だったのです。慌てて逃げましたが、機関銃のバババババーッという音、銃の弾が庭の石や燈籠に当たり跳ね返る音が聞こえました。間一髪で家の中に逃げ込んだ私は、艦載機から発せられる爆音と家族を心配する母親の叫び声を家の中で聞いていました。私は、今でも飛行機の音や火事、サイレンの音が怖いです。そして、気持ちが落ち込んだときには、大空襲の夢を見ることもあります。あの時の戦争の恐怖は、心からなかなか消えるものではありません。
8月15日、終戦を迎えました。私はまだ小さかったため、玉音放送の内容はよく分かりません。ただ、戦争が終わったことだけは分かりました。玉音放送を聞いたあと、開戦後初めて、外の景色をゆっくりと眺めました。見上げた空の青さ、一片の雲、見事に咲き誇ったノーゼンカズラの赤い花の色、すべてはっきりと覚えているほど、その瞬間は印象的であり、「もう我慢をしなくても良い」という開放感を強く感じました。
それから何年も経ち、終戦記念日の新聞記事に心に残った歌がありました。
「死ぬる日と 饅頭らくに 買へる日と 二ついづれか 先きに来るらむ」(河上 肇)
令和7年には戦後80年が経ち、日本に住むほとんどの人たちが戦争を知らない世代になっています。だからこそ、戦時中、食べたいものも食べられず亡くなってしまう人たちがいたことを忘れないでほしいのです。私は86歳になりました。穏やかな秋の空気を吸い、ゆっくり飛んでいる飛行機を見ながら空を見上げることのできる幸せを実感しています。
