堺市
戦争体験記
集団疎開と空襲
髙田さんは1934年 堺市生まれ。戦争で肉親や多くの友人、知り合いを失った経験から、戦争は絶対してはいけないとの思いを多くの方に語られています。
肉親そして多くの友人や知り合いが戦争で亡くなった
終戦直後の1945年7月9日学童の集団疎開先でのこと、「また××君が脱走したぞ」と叫ぶ声が松林の中でしました。当時の3年生以上の小学校(国民学校)は、強制的に縁故か集団で親元を離れ疎開させられました。私は5年生でした。3年生だった妹も同じ疎開先に行き、学校は閉鎖されました。同時に住居の疎開も始まりました。
脱走劇を演じた××君はまもなく見つかって疎開先に連れ戻されましたが、彼は私と同じ5年生でした。彼は快活な性格で、しかも脱走の常習者でした。
その脱走事件があった9日の夜、空襲警報が数回出されました。私達は手製の防空壕へ逃げ込みました。西の空が真っ赤に染まっていました。焼夷弾を満載した100機のB29が絨毯攻撃を繰り返し、後に、被害は焼失家屋18000戸、死者・行方不明者1800人、負傷者1000人にのぼったことが分かりました。
その空襲の数日後、4歳上の姉が疲れ切った姿で私の疎開先を訪ねてきました。
「妹がわからんの」最初は意味がわかりませでしたが、すぐに、行方不明だと分かり、大声で泣き叫びました。生まれて一番悲しい日となりました。高等女学校への入学が叶い、大喜びの3か月間でした。また母と一番上の姉が火傷を負い入院していると知り駆けつけたのは中学校の講堂でした。床に敷かれたむしろの上に多くの負傷者が寝かされていました。私の同級生の家族8人が全員亡くなられたとも聞きました。
未だ戦後は終わっていませんでした。衣食住全てゼロから出発したわが家に長男の戦死公報が届きました。もしも私と妹が疎開してなかったら間違いなく姉と同じ運命を辿ったであろうと思っています。
戦争は絶対してはいけない
戦争ほど無駄なものはない
