宇治市
戦争体験記
ヒマを植えて
宇治市宇治にお住まいの山本 明子(やまもと あきこ)さん。
山本さんは、一九四五年当時、兵庫県姫路市に住んでいらっしゃいました。
山本さんには、「ヒマを植えて」と題し、戦争中の暮らしのこと、八月十五日(終戦の日)の様子などについて、お話を伺いました。
一九四五年、父三十八歳・兵庫県立姫路中等学校の数学教師、母三十一歳、私九歳、弟五歳、妹一歳。
その頃、日本ではもう戦闘機のガソリンさえ払底し、その代用に松根油(松の木の根の油)をとるために、少国民と呼ばれた私たちは山へ松の木の根を掘りに行かされていました。五月のはじめに、国民学校(今の小学校)でヒマの種子が配られました。ヒマの種子には下痢に使うヒマシ油が含まれているのですが、それを子どもたちに大量に栽培させ油を採ってガソリンの代用にしようというのが、国を挙げての政策でした。その日の校長先生の訓示の中で、当時日本領土だった台湾の少年の美談が紹介されました。
「台湾の子どもたちも、この聖戦に勝つためにヒマを作ってくれています。ある少年はマラリアに罹り熱にうなされながらもヒマのことを気にかけて『ヒマに水を…』といいながら亡くなったそうです。皆さんもこの少年のように、お国のために心をこめてヒマを育ててください」
聖戦…太平洋戦争のことは当時そんなふうにも呼ばれていました。「アメリカやイギリスの侵略からアジアを守り、大東亜共栄圏を打ちたてよう、この戦争はそういう理想を実現するための聖なる戦いだ」と軍部は意味づけていて、国民はそれを信じていました。それが実は日本帝国主義に基づいた侵略戦争だったと知ったのは戦争に敗れた後のことでした。
私たちは庭にヒマを蒔きました。台湾の少年に負けるものかと毎日せっせと水をやりました。
「ヒマの芽 出た?」
「やっと 双葉が出てきたんよ。」
「うちのは、もう本葉が出たで…」
皆の話題はヒマのことばかりでした。
六月に入ってから私は体調を崩しひどい下痢が続きました。慢性大腸カタルと診断されて学校を休んで二週間部屋でじっと寝たきり、その頃もう本当に貴重だったお米や麦や野菜の入ったうすい雑炊と梅干を食べ、薬をのむだけの毎日でした。そんな日々でも私はヒマの様子が気がかりで、雨の日には傘をさして見に行き、梅雨の晴れ間にカッと日が照りつけると這うようにして水をやりました。母が「明子はそんなに心配せんでいいんよ。お母ちゃんがちゃんと見ててあげるから。それより、ゆっくりして体を治すことが大事よ」と言ってくれても、朝晩ヒマを見にいかなくては心配でたまりませんでした。おかげでヒマはすくすくと育ちました。太い茎はつやつやして八つ手のような大きな葉をたくさんつけました。
七月三日の夜、姫路市は大空襲に見舞われました。アメリカの戦闘機B29の爆音が鳴り響き、焼夷弾が雨あられのように降りそそぎ、姫路城より南の市街地は全焼しました。あちこちから火の手が上がって真っ赤に染まった夜空を背景に弾が光りながら落ちてきました。それはまるで大きな星が降ってくるようで、その異様に美しかった光景は今も私の目に焼きついています。
お城の北側の住宅地にあった私の家にも流れ弾が落ち、柴折戸と、縁側と座敷の一部が焼けました。家の大部分が焼け残ったのは隣組の日頃の消防訓練のおかげでした。近所の人達が集まって整然とバケツリレーをして水をかけてくれたのです。その夜、私たちは防空壕を出てたんぼ道を通り、父の当直をしていた中等学校へ避難しました。例年ならとっくに田植えの終わっているはずの田は、まだ麦の切り株が並んだままでした。農家の働き手も皆戦争に行かされて、田植えをする人手なかったのでしょう。私の父のような教職者は次代を担う若者を育てるための要員として兵役が免除されていました。しかし、その頃すでに、父の弟は妻と子を残して戦死し、大学生だった母の弟も出征していて生死不明という状況でした。
翌朝、帰宅して一番はじめに私はヒマを見に行きました。ヒマは無事でした!いつの間にか私より背の高くなったヒマにはたくさんの蕾がついていました。先の方には淡黄色い花も咲きかけています。
八月十五日、「正午に重大なラジオの放送があるので全国民こぞって聞くように。ラジオのない者は、ある家に集まって聞くように」という通達がありました。私たちは早めに昼食を済ませました。と言ってもそれは片手にいっぱいのいり豆だけでした。今なら節分の豆まきに使う大豆の煎ったものです。当時日本中の工場は兵器を作ることだけに集中し、国民は食糧難にあえいでいました。ですからそんないり豆さえとても貴重だったのです。私たちは一粒一粒かみしめながら、大事に大事に食べました。
正午、焼け残った座敷の床の間にラジオが置かれ、ラジオを持たない近所の人達が大勢、姿勢を正して座っていました。
「玉音放送」が始まりました。現人神(あらひとがみ)(神様が人の姿になって現れた方)と呼ばれた天皇陛下の声をはじめて聞きました。古いラジオは雑音だらけで子どもの私には何がなんだか聞き取れませんでした。
「先生、一体どうなったんですか」
と誰かが聞き、父が一言
「戦争に敗けました」
と答えました。一瞬の沈黙のあと、また誰かが
「先生、そんなこと言わはったら非国民やいうて特高に引っ張られまっせ」
と言いました。他の人達は口々に
「先生の言わはるとおりや」
「嘘や。日本が負けるはずがない…」
などと言いながら帰っていきました。
母の膝で妹が火のついたように泣き出し、つられて泣き出した弟を、私も泣きそうになるのをこらえて必死で抱きしめていました。私の耳には誰かの言った「非国民」「特高」という言葉が恐ろしい余韻をもって響いていました。「非国民」とは戦争に協力しない者を指す言葉で、そういう人達は「特高」(特別高等警察)に片っ端から捕えられて拷問にかけられ、大半が獄死していたのです。もし父が非国民として捕えられたら…私の頭の中が真っ白になり、体の震えが止まりませんでした。
戦争に敗けたのは本当でした。
私は庭へ出てヒマを見ました。父の背よりも高くなったヒマに、トゲトゲの実がたくさんついていました。父が私の肩に手をおいて「このヒマも、お役に立たなかったね」
と言いました。もう秋風が立ちはじめていました。
