伊勢市
戦争体験記
一色町空襲
濵口さんは10歳の時に宇治山田市一色町の自宅で空襲に遭い、姉妹と弟を失いました。自身も逃げている最中に背中に大やけどを負い、その時の傷によって戦後もつらい思いをしてきました。「私のようなつらい思いをしてほしくない」という気持ちから語り部として活動しています。
昭和20年6月15日、いつものように近所の仲のいい友人と遊んでいました。午前11時ごろ友人の母親からそろそろ帰るようにと言われ自宅に帰り、寝ている姉の横で本を読んでいました。するといきなり「ダダーン!!」とものすごい大きな音が鳴り、何が起こったのか一瞬わかりませんでしたが、家の真ん中に数発の焼夷弾が落ちてきたとわかりました。焼夷弾の爆風により寝ていた姉は窓から外に放り出されてしまい、そのまま命を落としてしまいました。私は、前が見えないほどの煙に視界を奪われながらもなんとか走って外へ出ることができました。逃げている最中に隣の家のお兄さんに出会い、「背中に火がついているぞ」と火を消してもらいましたが、重いやけどを負ってしまいました。服に火がついていることに気が付かないほど、助かろうと必死だったのです。一番上の姉、そして弟もこの空襲によって亡くなりました。私は見ていませんが他の人の話によると、田植えから帰ってくる途中、焼夷弾が直撃してしまい逃げることすらできなかったそうです。空襲によって家族の命を奪われたその時の感情は、今も鮮明に残っており、私の心の中に深く刻まれています。
私が住んでいた一色町では、昭和20年6月15日と7月29日の空襲で19人の尊い命が奪われました。中には子どもと一緒に逃げていたけれども途中ではぐれてしまい、そのまま我が子を失った親もいたと聞いています。負傷者を含めるとさらに多くの人が被害に遭われたでしょう。一色町は、伊勢の中でも被害の大きい地域だったとされています。おそらく船がたくさん係留されていたことや工場があったことから軍用利用されることを防ぐため米軍の標的になったのではないかと考えています。
背中のやけどを治療してもらうために医者の所へ行きましたが、十分な治療は受けられませんでした。当時は衛生環境が良くなかった上、夏場であったことから、背中にハエがたかったり蛆がわいたりしました。その苦痛が約3か月間も続きました。やけどで背中と腕の皮膚がくっついて、右手が途中までしか上がらなくなってしまいました。この後遺症は、それからの私の生活に大きく影響してきました。授業などで手をあげようにもまっすぐ上げることができず、ある先生は手があげられない理由も聞かず一方的に「手があがっていないぞ」と叱り、体罰までふるいました。他にも、泳ぐのが得意だったのに大好きだった水泳もできなくなりました。いつしか背中のやけどを見られるのが嫌で嫌でしかたなくなっていて、夏に浜へ泳ぎに行くことがあっても私は泳げないこともありました。私は心も体も傷つきました。
その一方、心が救われる場面もありました。学校での健康診断でのことです。自分の番が回ってくると、担当の先生は別の場所に来るように言いました。「何も悪いことはした覚えなどないのに」と思いつつもついていくと、そこには机や椅子がたくさん並べられており、周りから見えないような空間が作られていました。この先生は体罰をしてきた先生とは違い、私が他の生徒にやけどを見られたくないことを察し、配慮してくださったのです。その時はとても心が救われました。
戦争は大好きな人、そして大切なものまで奪っていきます。そして、その影響は戦争が終わっても続いていきます。私の場合、背中のやけどを見られたくなかったです。それは今も変わりません。外に出るのも嫌だと感じます。それでも私が語り部をしているのは、「戦争は何の得にもならない」「私のようなつらい体験をしてほしくない」「今後、戦争のない国にしたい」という思いを皆さんに伝えるためです。そのために、当時は見せたくなかったやけどを見てもらい、そのことを伝えようとしたこともあります。
戦争で一番犠牲になったのは、子どもや女性などの当時弱い立場の人だと思います。今後こんなことが絶対にないように、私の体験をできる限り伝えていきたいと思います。
