日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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四日市市

戦争体験記

記憶に残る防空壕

近藤 賢次 氏

近藤さんは八歳の時に四日市空襲を経験しました。近藤さんと家族は避難して無事でしたが、家は全焼してしまいました。当時の経験を、語り部として四日市市立博物館をはじめとして四日市市や周辺市町で語り継いでいます。
四日市が焼夷弾空襲で市の中心部が焼野原となった昭和20年6月18日、私は国民学校3年生、数え年で9歳、国鉄(国有鉄道)四日市駅(現在のJR四日市駅)近くの新丁(現在の新町)で、両親との3人暮らしでした。家の近くに30m四方の株式取引所跡地の広い広場があり、そこに防空壕が5基設置されており、作られたのは、昭和19年前半だったと思います。
防空壕は広場の地面を約2m×4m、深さ50cm素掘りし、周辺に40mm位の木の枝を柱として立て、薄い板を打ち付けて壁とし、これに土を盛りつけ、草花が植えつけられていました。床は、きめの細い土で押し固め、舗装せず、ベンチもなし、出入口の扉、照明もなしでした。この防空壕の模型より貧弱な感じでした。作られた後、空襲警報発令はほとんど無く。この防空壕を使って防火訓練もなしでした。私達は、学校から帰ると、皆で「かくれんぼ」、「おにごっこ」の隠れ場所として、恰好のものでした。
 昭和19年12月7日「東南海地震」が発生し、あと強い余震がしばらく続き、家で過ごすのが不安だったので、近くに住む叔父さん家族9名と2晩、防空壕で過ごしたことがありました。素掘りの床に、ムシロ、ゴザを敷き、暖房用に火鉢、こたつ、照明がなかったのでローソクを灯りとしました。扉が無いので、戸板を立て、風が入るのを防ぎ防空壕内の両側に、皆が各々足を伸ばして座り仮眠しました。私は、余震が怖いより、叔父さん達の大人の普段聞くことのない世間話を聞くのが楽しみで眠りにつきました。
 四日市空襲は、6月18日の夜半、6時40分頃から約1万発の焼夷弾で市の中心部が焼土となりました。この頃は、夜寝るときはすぐ避難出来るように枕元に貴重品を置き、昼間の服装のまま、ゴロ寝でした。
 「空襲警報です!避難しなさい」の声で、3人は家を飛び出しました。家の路地も近くの家や町は燃え、北の方を見ると、夕焼けのように空が真赤で、暗い上空から火の粉が、雨のように降ってきて、それが地上あたりに落ちると、その周辺が真赤になりました。
 私達は、広場の防空壕に避難しようと、出向きましたが、先に逃げて来た人達で防空壕は満員で、中に入ることは出来ませんでした。防空壕に入れなかった私達は、市の南はずれの今の近鉄新正駅の田んぼだった所まで避難しました。
 見渡す限り、焼野原となった自宅の焼け跡に戻る際、亡くなった人達をリヤカーに積んで運ばれるのを見ましたし、大きなコンクリート造りの防火用水の中で浮いている男の人も見ました。多分、この人は逃げ遅れ、水の中に入れば助かると思って入ったと思いますが、水が熱湯になっていたのではないでしょうか。
 家の焼け跡に戻り、私達が最初避難して入れなかった防空壕は5基共焼き崩れて跡形もなく、中で避難していた多数の方が焼死していました。
 もし、私が防空壕の中に入っていたら、私の人生は変わっていたと思います。この様な経験があったので、私は町の防空壕の構造やまつわる話などを忘れることがありません。