日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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津市

戦争体験記

古市順子さんが体験した空襲

古市 順子 氏

昭和20年、私は女学校の3年生(中学3年生)でした。私の家は西町(養正小学校の東側)にありました。戦争が激しくなって、母ときょうだいは大里に疎開をしていたので、私と父だけが西町に残っていました。
 当時、私たち女学生は学徒動員により、今の津球場のあたりにあった工場で、飛行機から爆弾を落とすための部品を作っていました。大きな空襲のあった6月26日も工場で働いていた私たちは、11時ごろに空襲があるかもしれないと聞き、4列に整列して阿漕海岸まで逃げました。工場にも防空壕がありましたが、そこに入れるのは工場長や軍人さんだけだったからです。松林の中に身を隠しながら空を見上げると、B-29が飛んできて工場の方に爆弾を落としていくのが見えました。私たちは激しい爆撃の音に手で耳を押さえながら、ずっと空を見上げていました。空襲が終わって工場に戻ると、工場はめちゃくちゃになっていました。防空壕も吹き飛び、そこに逃げ込んだ人たちはみんな亡くなっていました。
 その後も何度か空襲がありました。家の裏手の玉置町(養正小学校付近)も爆弾でめちゃくちゃになりました。でも、そのときのことは恐ろしかったということしか思い出すことができません。7月28日は、近所の人から「今晩は大きな空襲が来るかもしれない」と言われ、大里まで避難しました。夜になり空襲警報で目が覚めると、自宅がある方の空が真っ赤になっていました。数日して戻ったときには、塔世橋から向こうは一面焼け野原で、私の家も全部なくなっていました。
 戦争が終わって津の町もすっかり変わりました。でも、今の若い人たちにはこの町で恐ろしい戦争があったことを忘れずにいてほしいと思っています。

古市 順子 氏

亀井カノンさんが体験した空襲

亀井 カノン 氏

昭和20年、私は栗真(今の三重大学の辺り)に住んでいました。父は前の年に出征して、家には母と私たちきょうだいしかいませんでした。当時、出征する兵隊さんを見送るのは私たち子どもの役目で、学校で教えられた通り大きく元気な声で兵隊さんを見送ったのを覚えています。
 私は国民学校の2年生(小学2年生)でしたが、学校にいるときに警戒警報が鳴ると授業は中断して、私たちは家まで走って防空壕に逃げ込みました。かぼちゃ畑の真ん中にいるとき、戦闘機が真っすぐこちらに向かってきたこともありました。怖くて立ちすくんでいた私を、母が覆いかぶさるようにしてかばってくれたのを覚えています。
 7月28日、夜中の23時過ぎに、母の「坊や、起きなさい!!」と絶叫する声で目が覚めました。東側の窓からは近くの工場が真っ赤になって燃えているのが見えました。列車に乗るため、津駅まで走りました。熱風で火の粉が舞い、B29が空を埋め尽くし、焼夷弾が火を噴きながら落ちてくる様子は今でも記憶に蘇ってきます。ようやく乗った列車は満員でした。阿漕駅では、燃え上がる駅舎に列車が停車できず、待っていた人たちは徐行する列車に飛び乗りました。
 終戦直後、西古河の大イチョウの前から見た、焼け野原になった津の町は忘れられません。父は戦地から戻りましたが、体は弱り切っていて、寝たきりになり、間もなく亡くなりました。私が見送った兵隊さんたちも、ほとんどが戦地で亡くなったことを知りました。今でも「私たちがあの人たちを戦地に送ってしまったのだ」という思いがあります。私は、あの戦争の中を生きた一人として、戦争反対の思いを込めて、自分の体験を語っていきたいと思っています。

亀井 カノン 氏