日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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武豊町

戦争体験記

腹ペコの平和

山田 ミギハ 氏

山田さんは、昭和9年生まれ。本土空襲の激化により、昭和13年に名古屋市から家族と武豊町へ疎開してきました。亡くなられるまで、戦争体験の語り部として活躍されました。

 人にはそれぞれ忘れることのできない、いや、忘れてはいけない「とき(年月日)」がある。誕生日や結婚記念日などなど。生まれた日や幼いころのそれは、自分の意識で記憶しているものではなく、親、兄弟、周囲の人々から聞かされたことなどをもとに自分のこととして認識している。
私が生まれた昭和9,10年代は世界的な不況のころであったと知らされている。あちこちの企業ではストライキなどがあり、親の年代の人々は苦労していたに違いない。
 だれでも自分の実感として、忘れることのできない、印象深い「とき」を持っている。
 我々は8歳または7歳(数え年)で国民学校へ入学した。昭和16年4月のこと、全国的に国民学校とよばれ、単独の校章もなくなり、桜の花に国の字をあしらった全国統一の校章であったと記録している。
私の入学した学校は、名古屋市中区にあった松ケ枝国民学校である。鶴舞公園の近くにあったが戦後は廃校となった。わたしにとって懐かしいその学校は今は存在しない。
昭和16年12月8日、この日を私は生涯忘れることはできない。一家そろって朝食をとりながら、ラジオを聞いていた父が重苦しい顔つきで、「とうとう始まったか。大変なことになる…」と独り言だったのか、母に話しかけたのか、一年生の私にはそれがどんなことなのか、何が起こったのか理解できるものではなかった。が、そのときの暗い雰囲気に包まれたその朝を今もなお忘れることができない。
国民学校一年生が終わるころまでは、それほど戦争の厳しさを感ずることはなかった。ところが、二年生の昭和17年4月18日土曜日、ずんぐりとした米国の敵機が一機、かなりの低空で名古屋の空を飛んできた。日本本土への空襲の始まりである。鶴舞公園にあった日本軍の高射砲が真昼の空に数発炸裂し白い煙の塊を残した。その機は、南西に飛び、金山橋付近にあった水圧式ガスタンクに焼夷弾を投下してどこかへ飛び去って行った。ガスタンクに火がつき、私は恐るおそるも物見高く、それを兄と二人で眺めていた。
戦後も数年過ぎて兄から聞いた話であるが、その爆撃機はドーリットル飛行隊に属し、同日、東京、大阪、名古屋など大都市へ一機ずつ飛来したのだそうだ。名古屋に来たその一機はあのとき日本を去り、中国大陸に入った。しかしそこで霧に包まれ、飛行士は落下傘にて脱出、降りた所が運悪く日本軍の基地であり、捕虜となってしまった。この人は、捕虜収容所でひとりの日本人から英語の聖書を差し入れられ、読むものもほかになく、その聖書ばかり読んでいたそうで、この米兵は戦後米国に戻り、やがて牧師になった。その後、宣教師となって来日し、奇しくも名古屋の地へ初の足を踏み入れたのであった。彼は、名古屋YMCAのキリスト教の伝道会場で名古屋空襲のようすを語ったそうだ。そこで聞いていた兄は、あの時の記憶と一致することに驚いたのである。
本土への空襲があることをしった父は、臆病にも(賢明にも)早々と名古屋から疎開することを決め、昭和19年3月末に父の生家のある武豊に引っ越してきたのである。ちょうど小学校4年生の新学期から武豊国民学校の生徒となった私は、名古屋弁を使い「ミギハ」という片仮名名前の変な子として皆さんに受け入れられたのである。
やがて昭和20年7月、この臆病な父へ武豊役場から赤い紙が届いた。42歳の年寄りまでも日本軍は必要としていたのか。父は外地へは行かされず、九州の地で兵役に就いていた。
それから間もなく、忘れることのできない、忘れてはいけない「日」が、子供心にも強烈に残るその日が・・・。そして母は肩の荷を降ろしたように、「これで空襲もなくなり、お父さんも間もなく帰ってくるだろう」とか、「もう、夜になっても、だれはばかられることなく、電灯を明々とつけることができる」などと言いながらあの、光るB29の飛んでいない夏空を見上げていた。
その日から子供たちにとっては腹ペコの平和であった。爆弾の音も、警報のサイレンの音も、機銃掃射の音も、B29の爆音もない。おまけに、米もない、醤油もない、着物もない、履物もない、無い無い尽くしである。子育て最中の親たちはさぞかしつらい思いをしたであろう。
まもなくして入学試験もなくなった。それは小学校6年生も終わるころ、学校で担任の先生から進学について話があった。これから卒業する小学生は全員、中学校へ無試験で上がれるのだ。一応進学希望をもっていた者の一人として私は大変うれしく思った。
いよいよ新生中学校への入学である。入学試験もなければ、校舎もない(間借りの保養園)、学生服もない、カバンも学用品もさえも。エンピツなどはたとえ持っていたとしても、兄姉が使い古した手のひらに隠れるほどの小さいもの。教科書も途中で転校してきた子には渡らなかった。
池をはさんで隣に引っ越してきた、とてもスマートな可愛い女の子は教科書がなくて困っていた。私のいえから毎日のように教科書を借りていってはそれを全部手書きで写しとって、学校に持って行ったのである。
数年前の同窓会の折、彼女にそのことを話したところ、その作業は彼女のやさしいお兄さん二人がしてくれたそうだ。それにしても大変な時代であった。
・・・・・昭和20年8月15日である。われらが同年代の者にとって、この日は何であったのか?戦中に、親、兄弟、親族、知人など多くの尊い命を犠牲にしたこの事実は何であったのか?その日が、平和の始まりの記念として、人間の尊厳を重んずる民主主義、自由主義のスタートラインであったろうか。十歳のはなたれ小僧には、何も分からなかったであろうことは当然であった。平成8年、その日から半世紀が経過した現在もなおどのように理解したらよいのか明確な答えを見い出すことはできない。
腹ペコの平和から飽食の平和へと、めざましい発展をとげた現在があるのは戦中多くの方々が尊い命を犠牲にされたこと、また、戦中戦後の混乱期、先人たちが耐えがたい苦労や血のにじむような努力をされたことなど、それが礎となっていることを決して忘れてはならないと思う。
私は心新たに彼らに対し深いご冥福と、尊敬、感謝の念を抱かずにはいられないのである。世界が、すべての人類が、取り返しのつかない過ちを二度と起こさないように願いつつ、再び来ることのない「今日」を一生懸命に生きていきたい。

山田ミギハ(みぎわ)氏(山田ミギハ氏ご家族所蔵)