塩尻市
戦争体験記
戦時中の食糧不足
現在、塩尻市広丘吉田にお住いの髙橋さんからお話をお聞きしました。
髙橋さんは、当時上諏訪町(現諏訪市)に暮らしており、家族構成は、父、母、7人兄弟の長男でした。当時は、六畳間二間の長屋に住み、父は出征中で、食事もままならない状況でした。そんな戦争当時の食糧不足について塩尻を訪れたエピソードも踏まえてお話していただきました。
当時の食事は、すいとんならいい方だった。摘んだ草を入れて炊いたご飯は米粒がほんの少ししかなかった。学校から帰ると、食糧を確保するためびくを持って競馬場や川の土手など毒草以外なんでも摘んだ。近所の道端のよもぎもすぐなくなるくらいどの家も食糧不足だった。そのよもぎも当時は貴重な食糧だった。
そして戦争が始まり、ますます食べ物が苦しい状況になっていった。配給もあったが、その配給自体が抽選であり、満足な量は配布されなかった。学校で使うものも抽選で配給していた。近所には食べ物がなく、拾ってきた犬を食べて体を壊して亡くなった人もいる。私自身も植えてあったいもの取り残しを拾って食べたら、いもの面が青くなっていて、家族全員が下痢と嘔吐で大変な目にあった。
食べ物がなかったため、いろいろなところで物々交換を行っていた。そういう風にして食べ物を調達している人がたくさんいた。近所の人たちが物々交換していたため、初めは近場の岡谷や辰野などに行っていた。休みの日には2歳上の姉と2人で4時起きして霧ヶ峰に行ったりしていた。
ある日、姉と2人で塩尻まで買い出しに行くために上諏訪駅から汽車に乗った。当時往復切符を買うのも大変で、片道分しか売ってもらえず、夕方5時ころ塩尻駅に着き、帰りの切符を買おうとしても売り切れで買えなかった。翌日朝に売り出す切符を買うため寒い駅舎で寝て待った。切符を買った後に物々交換のため宗賀、洗馬方面へと歩いた。岩垂あたりの部落を1軒ずつ回り、着物と食糧との交換をお願いしても断られた。中には飼料用の干したとうもろこしでさえ、交換してもらうようお願いしても断られてしまった。
疲れ果てて道端に座りこんでしまったが、力を振り絞り1軒の平屋の小さな家を訪ねたら、おばあさんから「うちには何もないが今昼時だから昼を食べ」と声をかけられ白米とカレーを御馳走になった。姉と2人で涙を流しながら食べ、世の中にこんなうまいものがあるのかと思うほどだった。そのあと何度もお礼を言い、他の家を回って交換してもらい、じゃがいもやサツマイモなどがリュック一杯になるくらいになった。夕方汽車で塩尻駅を発ち上諏訪に帰った。腹を空かせて待っていた弟たちや母が笑顔で迎えてくれたときは本当に嬉しく、今でも忘れられない。
そんな食糧がない時期は、3年間くらい続いた。
戦争が終わったときは、家のまわりで近所の人たちとござの上でラジオを通して聞いた。父は戦争当初樺太にいたが、終戦の年に栃木に着任した。航空予備隊だった。滑走路の整備などをしていた。戦争が終わってもなかなか家に帰ってこなかったが、父が帰ってきたときは嬉しかった。
塩尻には40歳くらいのときに引っ越してきたが、その時にすぐ岩垂辺りに行き、カレーを御馳走になったおばあさんにお礼を言いたかったが、その家はもうなかった。
(子どもたちに伝えたいこと)
友達づきあいを大切にしてほしい。友達は必ず助けてくれる。今の子どもたちは戦争中と違い、恵まれた環境にいる。貧しくても寄付してくれる可能性もある。ただし色々と人との関係に悩んで自殺してしまう子どもがいるのは悲しいこと。何か悩んでも助けてくれる人が必ずいるはず。戦時中は生きたくても生きることができない人がたくさんいた。命を大切にしてほしい。