伊那市
戦争体験記
シベリア抑留
大正12年生まれの長田さんは、戦時中、歩兵部隊として中国の八路軍や銃路軍との戦闘を経験しました。満州で終戦を迎えましたが、ソ連軍に捕らえられ、連行された先は、ソ連領内バイカル湖周辺のチェレンホーボの収容所でした。それから4年もの間、氷点下40度を下回る極寒の地で重労働を強いられました。
<20歳で戦地へ>
昭和18年、私が20歳の時に軍への徴集がかかりました。上伊那図書館(現:創造館)で行われた兵隊検査に合格し、高崎歩兵38部隊へ入隊しました。高崎では毎日、訓練で山の上の観音様に向かって走りました。
昭和19年1月、戦地への出発が決まり、博多から北支に渡りました。北支では教育と訓練の日々が続きました。訓練が始まった頃、近くで戦闘があり、血だらけの負傷兵がやってきて看護婦の手当てを受けました。戦闘中のため歩哨(武装した見張り)として立ちましたが、その時初めて「戦争というのは嫌なもんだな。お互いに殺さないと自分がやられてしまう。それが戦争だ」と感じました。 同年5月、初年兵として初めて戦闘に参加し、それから1年あまりは戦闘の連続でした。この間、右肩に榴散弾の破片が刺さったこともありましたし、間一髪機関銃を撃つ敵から逃れたこともありました。九死に一生を得ましたが、負傷した右肩は、後遺症により物が投げられなくなりました。
<過酷なシベリアでの4年間>
昭和20年8月15日、満州で終戦を迎えました。この時には、まさかシベリアで4年間も強制労働をさせられるとは夢にも思いませんでした。私が経験したシベリア抑留では、約57万5千人が抑留され、約5万人が死亡したとされています。
私たちの部隊は終戦後、ソ連軍の指揮下で捕虜となり、9月中旬に黒河に移動しました。そこでソ連軍が略奪した物資を船に積み込む労務に使われた後、ソ連兵から「ヤポンスケ、トウキョウ、ダモイ(日本人、東京へ、帰るぞ)」と言われ、汽車に乗せられました。本当に帰ることができると思って汽車に乗りましたが、汽車は西へ西へと進みました。「トウキョウダモイ」は嘘でした。昼夜問わず走り続け、バイカル湖の西側にある小さな町 チェレンホーボに停車しました。
チェレンホーボには6つの収容所がありました。収容所の周りには電流が流れる鉄条網が囲み、銃を持ったソ連兵に監視されていました。収容所内には簡単な2段ベッドがぎっしりと並べてあり、衛生環境は非常に悪く、ゴキブリやシラミにも悩まされました。発疹チフスが流行した時には、収容所にいる約3千人のうち約2千5百人が発症し、1カ月で5百人もの仲間が亡くなりました。外は氷点40度を下回る環境で、一晩でかんかんに凍った亡骸をそりで運び、土に埋めました。
収容所での労働は石炭の採掘や水道用の穴掘り、線路の敷設など多岐にわたりました。ロシア人と日本人は大人と子どもほど体格差がありましたが、同じノルマが求められました。自らの体重を超える丸太やレールなどを運ばされることもありました。
当時若かった私には、なによりも空腹が苦痛でした。提供される食事は粗末なもので、一日の食事は黒パン1つと4人で分ける洗面器一杯のおかゆのようなえん麦でした。空腹に耐えかね、道端の草や下水道を流れる腐ったジャガイモなどを茹でて食べました。毒草を食べ、一時視力を失ったこともありました。
<希望は捨てなかった>
生きてさえいれば、いつか日本に帰れると信じ、必死に生き抜きました。抑留から4年が経過した昭和24年8月の朝のことでした。突然、ソ連兵から「トウキョウ、ダモイ」と言われました。今度は誰もその言葉を信じませんでした。汽車に乗せられ、着いた先はソ連領内ナホトカ港でした。汽車を降りると、港に日本国旗を掲げる船が見えました。私たちを迎えに来てくれたのです。あの瞬間は今でも忘れられません。船に乗り込み、ナホトカ港を出港し、舞鶴港に着きました。やっと日本に帰ることができました。伊那に向かう汽車の中で、婦人部の方たちが差し入れてくれたお茶を飲み、「日本はいいな」と思いました。
<平和への願い>
私の兄2人は戦争で帰らぬ身となりました。多くの仲間も抑留生活で亡くなり、日本に帰れぬまま、永久凍土に眠っています。
私はこの経験を後世に伝え残したいと思い、著書の執筆や春日公園に慰霊碑「平和の礎」の建立を行ってきました。戦争を起こさないためには、戦争をしないと一人一人が思うことが重要です。私が経験したこの事実が、戦争を知らない世代の方々の心に受け入れてもらえると信じ、永遠の平和を祈っています。