日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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松本市

戦争体験記

勤労奉仕と兄の出征

 横田 國政(よこた くにまさ) 氏

昭和3年(1928)に松本市大村生まれ。松本商業学校(現松商学園高校)在学中に学徒動員され、陸軍飛行場の建設にも従事した。現在は松本古文書研究会会長を務め、精力的に古文書研究及び古文書解読指導を行う。
私の生まれは農家、昔でいう貧乏百姓の三男坊でした。小学校6年から昔の松本商業学校(現松商学園高校)に進学しました。教科書や授業料が4円50銭となかなかのもので、お母さんに「お前な、しっかり勉強しろよ、本当にな。血の出るようなお金だでな。」と言われたことを覚えています。それが、国策で勉強したのは1年だけ。もう2年からは勤労奉仕とか学徒動員のため教科書も無かったですよ。
勤労奉仕では、飛行場の建設、川の石を除いて畑にする作業や田んぼの稲刈り、五十聯隊の演習場の松林開墾など、様々なことをしました。その頃には、配属将校っていう軍人がいて、たまに来るんですよ。一列に並ばせて軍人勅諭を読ませて、態度が良くないと言われた仲間が鉄拳制裁を受けていたこともありました。
あの頃はみんなが歌を歌いました。「刃も凍る北海の・・・山崎大佐指揮をとる・・・」アッツ島玉砕の歌を歌った覚えがあります。玉砕なんて新聞にも華々しく報道されましたが、実際はあんまりいい状況ではなかったと思います。歌は歌っても、「だから俺たちが頑張らなきゃ」という心持ちの確かなことは覚えがないですよ。「お国のために」なんて無いまま、勤労奉仕などに参加していたと思います。
一番上の兄貴はというと、海軍の通信兵で、「野分」という駆逐艦に乗って行きました。その駆逐艦はいまだに引き揚げられないで、フィリピン海溝に沈んでいるんです。終戦のわずか20日くらいのときに、その兄貴の戦死の公報が来たので、父と一緒に長野の大勧進へ遺骨を取りに行きました。その遺骨を抱いて家に帰ったら、お母さんが「そんなものはねえ。死にっこねえ!」「絶対死んでねえ!」って言っていました。その遺骨を開けてみたら、中には包帯でぐるぐると巻かれた中に1枚の写真(兄の写真)が出てきました。海軍は遺品が残らないので、戦地に行くときにみんな自分の写真を残しておくんです。それを見たお母さんが、「それ見ろ!まだ死んじゃいねえんだ」って言っていました。私自身は、そういった姿を見て、「ああ、お母さんは、本当につらいずらなあ」と思ったのを覚えています。
(令和5年8月12日「文書館子ども講座&親子平和教室」より)

横田 國政 氏