日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

  1. ホーム
  2. 会員
  3. 被爆80周年事業「未来につなぐ戦争の記憶」
  4. 新潟県
  5. 五泉市

五泉市

戦争体験記

戦場に散った十代の少年たち

大口 光威 氏

【紹介文】
大口さんは、昭和4年東京生まれ。昭和27年に早稲田大学第一法学部を卒業されました。昭和19年6月、15歳で自ら志願し、新潟県村松町(現五泉市)の村松陸軍少年通信兵学校12期生として入校。訓練中に終戦を迎えました。戦後は、通信兵学校の1年先輩にあたる11期生が多くの尊い犠牲を払った事実を後世に伝えようと、冊子の刊行や講演会に尽力されてきました。
【体験談】
私は中学3年生の15歳の時に、念願の陸軍少年通信兵を志願しました。
当時、国は戦争へと突き進んでおり、軍国主義的な雰囲気が社会全体を覆っていました。未熟な私たちもその影響を受け、自然と軍国主義に染まっていきました。そういったこともあり、私は、昭和19年6月、12期生として村松少年通信兵学校に入校し、半年前に入学した11期生の先輩方とともに、厳しい訓練の日々を送りました。
入校後1か月目には、私たちは会津若松にある白虎隊の旧跡を訪れました。武士の誇りを貫き、飯盛山で自決した白虎隊士たちの話を聞き、深く感銘を受けました。この体験は、私たちに「散るべき時には白虎隊のごとく潔く散る」という武士道精神を教えるための大切な機会となりました。
また、学校開校記念日には、私が生涯忘れることのできない「月見の宴」が催されました。校長先生以下、幹部の方々が臨席し、真っ白な体操着に身を包んだ私たち1,600名の生徒は、練兵場の芝生の上に机を並べ、仲秋の名月を鑑賞しました。宴の最後は軍歌の大合唱となりましたが、特に『月下の陣』の「ふりさけ見れば天の原」や「吾れ父母や兄弟を」という歌詞に、生徒たちの目には涙が浮かんでいました。
毎日の厳しい訓練に追われ、故郷を思う気持ちが薄れていた私たちにとって、この月は故郷の月でもあり、同時に、いつかは戦場で見上げる月でもあるように感じられました。そして故郷にいる家族や友人のことを思い、複雑な感情がこみ上げてきたのです。
それから1か月も経たないうちに、この夜参加していた11期生800名の中から347名が突然繰上げ卒業となり、そのうちの315名が南方戦線行きを命じられました。
では、なぜ11期生が突然、繰上げ卒業となり、南方戦線へ送られることになったのでしょうか。その理由は、当時、戦況が悪化の一途を辿っていたことと深く関連していると考えられます。日本軍は、兵力不足を補うために、私たちのような若年兵を最前線へと送り込んだのです。
この時、南方戦線へと送られたのは、満州国境警備にあたっていた関東軍から派遣された兵士に少年通信兵・少年歩兵など1,000人程を加えた約1万5000人の旭兵団でした。彼らは3隻の輸送船に分乗し、11月13日の未明、門司港を出港しました。しかし、この情報は敵に漏れており、待ち伏せしていた敵の潜水艦の攻撃を受け、輸送船2隻が沈没。多くの少年兵が命を落とす悲劇に見舞われました。
奇跡的に生き残り、残りの1隻で南方へと向かったわずかな少年兵たちは、12月3日の夜半、ルソン島のリンガエン湾に到着しました。しかし、彼らを待ち受けていたのは、想像を絶する過酷な状況でした。食料も物資も不足し、激しい戦闘に巻き込まれるなど、少年兵たちは想像をはるかに超える苦難を強いられたのです。
マニラが陥落すると、司令部は奥地へと後退を続け、少年兵たちもそれに従って山岳地帯へと深く入り込んでいきました。指揮系統が断絶され、補給は途絶。通信機材を背負い、敵の目を避けながら、彼らはジャングルを彷徨いながらも、終戦まで逓信を続けたそうです。
わずかな食料はすぐに底をつき、飢えに苦しむ少年兵たちは、山野をさまよって食べられるものを必死に探し求めました。雑草はもとより、木の実や根、さらにはヘビやトカゲ、バッタなど、ありとあらゆるものを口にしました。毒草を誤って食べてしまう者も少なくありませんでした。
また、食料を求めて、原住民の村に押し入り、銃を突きつけて食料を奪うという悲惨な事態も発生しました。さらには、仲間同士で食料を奪い合ったり、戦死した人間の肉を食べるという人間性の崩壊を垣間見るような出来事も起こったと聞いています。
さらに劣悪な環境の中で、赤痢、マラリア、デング熱などの熱帯病が蔓延し、多くの少年兵が命を落としていきました。
しかし、そんな絶望的な状況の中、彼らは空から舞い降りてきた投降勧告のビラによって、終戦を知ることになります。「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」という教えが深く根付いていた彼らは、最初は降伏を拒否しました。しかし、極限状態が続き、ついに白旗を掲げ、やつれて骨と皮ばかりになり、ボロボロになった服をまとったひどい有様で捕虜収容所に送られたのです。
会津若松で「散るべき時には白虎隊のごとく清く散れ」と教わった少年兵たちの末路は、あまりにも悲惨でした。私たちの村松学校11期生は、出兵した315名中、生きて再び祖国の土を踏めた者は、わずか41名にすぎませんでした。
戦後になり、たった半年の入校の差で11期生が悲惨な最後を遂げたとの知らせを聞いた時の衝撃は、今もなお私の心に深い傷跡を残しています

大口 光威 氏