長岡市
戦争体験記
救われた命 平潟神社の井戸の中で
星野さんは当時7歳、中島国民学校2年生でした。長岡空襲の夜、家族で平潟神社に逃げますが、炎のなかで見失った父と弟を亡くしました。現在、戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えるため、長岡戦災資料館の語り部として活動しています。
亡くなった母から聞いたことを含めてお話したいと思います。長岡空襲の時、私は中島国民学校の二年生でした。当時山本町、今の春日町に住んでおりました。家族は父と母、五歳の弟、二歳の弟の五人家族でした。父は戦災の二年も前から鶴見の造船所に徴用にとられ、空襲の時は身体を壊して家に帰ってきておりました。
あの晩、私は眠っていたところをたたき起こされて、みんなと一緒に町内の防空壕に逃げ込みました。それまでにも何回も何回も飛行機が来て空襲警報のサイレンが鳴り、恐い思いをしましたが、それまでは何事もなく飛行機が帰っていきました。でもあの日は違いました。
防空壕に入って間もなく、ガーという音がして爆弾が落とされました。防空壕の入口は燃え、ここは危ないから逃げろと、後ろの口から逃げ出した時、自宅の方を見ますと側の電信柱が天に向かって燃え上がっていました。私がその時、何を思ったかと申しますと、大好きな黄色のレースのワンピースが燃えてしまうという悲しい気持ちでした。随分幼かったなと思います。山本町はごうごうと燃えていたそうです。
「どんどんと流れてくる火で危ないから、川の向こうへ渡ろう」と父が言ったそうです。私は父に背負われて柿川を渡りました。それが父と私の最後でした。大きな父の背中を今でも憶えております。川から上った私は、下の弟をおぶっている母と手を繋いで一生懸命に走りました。父は上の弟を手がけでおんぶしていたそうです。母の実家が大島にありましたので、何とか長生橋の方に逃げようと思ったそうですが、山田町も千手も火の海だったそうです。逃げる人がいっぱいでいっぱいでその人混みの中、私は母に引っ張られてただただ一生懸命に走りました。途中で転んで動けなくなった時、母が助けに来てくれたことを今でも憶えています。
人ごみに押されながら着いたところが平潟神社でした。そこもすぐ火の粉が吹きつけてきて、熱くて熱くて吹雪のような火の粉の中を神社の周りに身を伏せながら逃げ回りました。何回ぐらい回ったのか、随分長い間だったように思うのですが、そんなに長くはなかったのかもしれません。
神社の正面に来ると、警防団の方が防空頭巾の上から水をかけてくださいました。そのうちに神社の建物から火が上り、境内が火の海になりました。そんな中で母は、上の弟をおぶっていた父を見失ったそうです。そして、母はその火の中から「かあちゃーん」と呼ぶ弟の声を確かに聞いたそうです。
私は母に連れられ、井戸のようなところに飛び込みました。そしたら、その上から何人か飛び込んでこられて、苦しくて苦しくて母は「父ちゃんものりちゃんも死んだからここで死のうね」と私に言ったそうです。上からかぶさってきた人たちが不意にいなくなり、母はここにいたら危ないから自分たちも上がりたいと思ったそうですが、自分の力で外に出ることはかなわなかったそうです。そんな時、警防団の方が私たちへ水をかけてくださいました。母はその水をズックに汲んで、私と弟にかけ続け火の粉から守ってくれました。そこで私は、少し眠ったようでした。
夜が明けそうなころ、寒くて目が覚めました。辺りはしーんと静かになって遠くの方から「何々ちゃーん、何々ちゃーん」と女の方の声が聞こえました。母は大きな声で「ここから助けてください」と叫んだそうです。女の方が飛んで来られて、私たちは助け上げられました。その方は寒さに震えている私たちにご自分の服を脱いで一枚ずつ着せてくださいました。そして私は、母の膝でぐっすり眠りました。
目が覚めた時は、私の周りは焼け焦げた人の死体でいっぱいでした。火傷をしていた私たちは、神谷病院さんに行きましたが、もうそこには大勢の怪我人でいっぱいで手当てはしてもらえませんでした。母は、私と弟を入口の石段のようなところに座らせて、「ここから絶対に動かないように」と言って、父と弟を探しに平潟神社に行きました。
父は忠霊塔のそばで死んでいたそうです。「どなたが掛けてくれたのか知らないけど、白い布が父ちゃんの顔の上にかかっていたよ」母がその時言いました。私たちは足を引きずって山本町に帰りました。そこで炊き出しのおにぎりを一つ頂いたように思います。そのうち、母の実家のおじさん(母の兄)がリヤカーを引いて、私たちを迎えにきてくださいました。
終戦の知らせを聞いたのは、栃尾郷病院に入院中でした。弟の遺体はどうしても見つかりませんでした。あの炎の中、父が死んで弟が生きているはずがありませんのに、母はもしかしたら生きているのではないかとサーカスがくれば見に行き、新聞の尋ね人の欄に出させてもらったり、いつまでもあきらめきれないようでした。
後でわかったことですが、私たちを助け上げてくださった女の方は、ご主人とお子さん四人を亡くされてご自分一人助かったのだそうです。母と二人手を取りあって泣いたそうです。
そして、私たちが飛び込んだ井戸の中にはどなたかがおられたはずでした。私たちのために命を落とされたのです。申し訳ないという思いは、母と私の胸にもずっと突き刺さっておりました。懸命に水をかけてくださった警防団の方々もお亡くなりになられたと思います。人様を犠牲にして私はどうして生き残ったのだろうかと、今でも思います。目が覚めた時、そばにあったたくさんの焼け焦げた方々の様子―こんな恐ろしく辛い思いは消えることはありません。
三十一歳で未亡人になった母は、私と弟を育て上げ、孫のお世話もさせてもらって、九十七歳で亡くなりました。「戦争なんかしちゃだめだ。戦争ほど辛くて悲しいものはない」母が言っておりました。私も本当にそうだと思います。
長岡まつりの夜、鎮魂の大きな白菊の花火があがると、私は手を合わせます。天上から亡くなった大勢の皆さんが、平和になってよかったねといつも見てくださるように思います。今の平和な日々を本当にありがたいと思っております。
