日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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新潟市

戦争体験記

新潟市で空襲体験を描き続けた理由

坂井 氏

坂井さんは当時13歳、江東区大島で東京大空襲を体験し、戦後は新潟市で旋盤工として働きながら空襲体験を描き続けました。晩年になっても「体験を絵にするときはいつも泣きながらだった。あの火に焼かれる熱さと苦しさを思い起こすと今でも体が熱くなる」と話していました。
友人、知人が目の前で焼き殺されていくのが私の脳裏に強く焼きつく。その場面を思い起こすことは苦しく涙の連続だった。戦争とは本当に愚かなこと。おおぜいの人の命を奪う。それも女、子どもが多い。どうしてこんなことが公然と行われていたのか。それが戦争だ、仕方がないと当時の人たちは思っていたのか。あの時のことはとても割り切れるものではない。あの恐ろしい出来事が二度とあってはならない、死んでいった人たちのためにも記録を残しておこうと考えた。
 昭和20年3月10日未明。
爆音が風の音にまじって近くで聞こえる。焼夷弾が花火のように広がって川向うにあるガスタンクに落ちていく。ようやく空襲警報が狂ったように鳴り出した。すさまじい爆音と対空砲火の音に近くの人たちも家から飛び出してくる。親父が「駄目だ、早く逃げろ、荒川の方へ行くぞ」と言う。私は恐ろしくなって体が震えていた。大人用のリュックサックを担いで必死になって姉たちに付いていく。
丸八橋の近くは火に追われて逃げてきた人で一杯になっていた。人混みの中ほどまで来たとき行く手の方に火が見えた。橋の欄干が燃えてしまっている。あっというまに火風にあおられ、滑るようにして川に落ちる人たちの叫び声が聞こえた。川向うの第五小学校では荷物に火がついて逃げ惑うおおぜいの人たちの姿が見える。
ものすごい熱風に思わずコンクリートの堤防に体を寄せたが目も口も開けていられない。降ってくる熱い火の粉を傍にいた人と互いに払いあう。息が苦しい。唾を吐くと真っ黒いものが口から出てくる。とにかくひどい匂い。
煙の切れ間に空が見えてきた。どの顔も真っ黒。私は腰が抜けたようになって立ち上がれない。第五小学校の方を見ると思わず息をのむ。広場には真っ黒になった焼けた人間が折り重なるように死んでいた。どんなに苦しかっただろう。
3月12日新潟市へ避難。
上野から列車で13時間。新潟駅に到着すると改札口で警察が焼け出された人たちに「今夜泊まるところのない人には宿を世話します」と言っている。親父の後について沼垂の叔母の家へ向かう。新潟の町も人もなんだかのんびりしていて、どこに戦争なぞしているのかと思える。
叔母は「みんな無事だったのか、早く入れ」と家に入れてくれたが電気の明るさにまごつく。東京では外に漏れるといけないからと家の中を暗くしていたので電気の光が目に染みる。「東京方面は電話線が通じない。よほどひどくやられたのだろう」と叔母たちは心配していた。ふとんを敷いてくれたので横になったが天井がぐるぐると回っているようで気分が悪い。
朝になると叔母が風呂に入れと言う。風呂からあがると新しいパンツや股引、長袖のシャツがきちんと揃えてあった。焼け出された時から着たままでいたので体に染みついた変な臭いがしていて気になっていた。下着を着替えるとさっぱりとしたいい気持になった。
私の分の朝食も用意されていたが、それを見たらまた気分が悪くなってきた。あの死んだ人間の姿といやな臭いが思い出されてきて食べる気分になれない。叔母が私の顔を見て「何も食べないと体に良くない」と言うのでみそ汁だけは飲んだ。
山ノ下に疎開していた母たちを訪ねる。母は私の顔を見ると涙ぐんで何か言っているみたいだったが私も思わず泣いてしまったので聞こえない。
叔父が近所の桶屋に話をしてくれたので倉庫を借りることができた。分かれて避難していた家族がようやく一緒になれると思うと嬉しかった。叔母が台所に使う鍋釜七輪から夜具、電気の球を用意して運んでくれた。新しい家の掃除が終わった夜、明るい電気の下でご飯を食べた。今まで暗い所でビクビクしながら食べていたから天国に来たような気持だった。

坂井 輝松 氏
坂井輝松さんが描いた戦争の絵画