大和市
戦争体験記
13歳少年の戦争体験記(※文中の年齢は数え年)
1945年、国民学校高等科1年13歳。兄二人は海軍と陸軍に出征、母と姉弟で激しい空襲の中に、田畑を耕し、家族を守り戦った79年前の体験の記録。
13歳少年の戦争体験記
私が住んでいる周辺には、日本一と言われた迎撃戦闘基地、厚木海軍航空隊があり、首都防衛の要として奮戦、私達の空を守り小学校の上空を飛び立って行った。私の住む深見地域には石川島航空はじめ、大手5社の航空機生産工場が連立する工業地域として建設工事が急がれていた。家の目の前にある工事現場に行き、「ここで飛行機を作るんだぁ」と後先のことなど考えもせず、自慢しわいわいと騒いでいた。しかし、戦争が激しさを増し、建設中の工場は攻撃の標的となった。
1944年11月、我家の上空にB29の機影を見た。高い上空に飛行機雲の尾を悠々と引いて。厚木基地周辺を撮影していたという。私達が初めて見た敵の飛行機だった。数日後の夜半近く、近くの畑に爆弾が投下された。轟音と共に、雨戸が爆風によって吹き飛ばされた。私達は何が起きたのかわからず、暗闇の中、崖下にある穴の中で夜を明かした。翌日、数百メートル離れた現場には火山の噴火のような爆撃坑があった。爆撃の破壊力を知り、崖下に深い防空壕を掘った。
空襲は激しさを増し、1945年3月の東京下町への大空爆では一夜にして10万人が犠牲となった。東京の親戚や同級生の無事を祈った。B29、500機の大編隊が遠い島の基地から空襲に来るのは私達にはわからなかった。この空襲から住んでいる深見でも警報の発令が多くなり、防火訓練などを盛んに行うようになった。この年の春、わずか30戸の小さな集落をアメリカ軍の戦闘機が襲った。この周辺は広大な軍需工場の建設中でこれらを目標としていたが、集落の住宅も襲い、12棟が全焼、3人の同級生が家を失った。私は警報と共に点々と黒いP51の機影を見た。これは近いと思い、畑道を駆け戻る。防空頭巾を被る間もなく、飛行機に追われるように近くの山林に逃げ込む。P51戦闘の機銃掃射は山林の木々をなぎ倒し、弾丸は容赦なく集落に集中した。数か所から火の手が上がり、藁葺き屋根の火の粉は南風に煽られて黒煙が上がった。私は次兄と二人で家の周りを飛び回って火を消し止め、母家を守った。焼け落ちた家の柱が黒焦げになり、屋敷境の大木も黒焦げだった。近くの火災なので、炊き出しのおにぎりを作ったが上手く握ることができなかった。その兄が陸軍に出征し、我家では母、姉、弟と私の母子家庭となったが、激しい空襲の続く中、懸命に頑張った。
1945年5月、国家総動員とか、この時節、遊ぶ所も隙もなく、上級生は工場奉仕に、私達は畑となったゴルフ場の草むしりに行かされた。戦時中のゴルフ場は一面の芋畑となっていたが、草取りの作業中、突然の空襲警報、サイレンのなり終わらないうちにグラマンの機銃掃射、「やばい、逃げろ、隠れろ」とバラバラに近くの杉林の中に逃げ込む。
この周辺は軍需施設が多く、空襲は度々受けた。短い時間だが、両手で頭を押さえて、息を殺した。私達の避難が素早く、野ばらのひっかき傷くらいで無事だった。飛行機が去った後、空を見上げて、『危なかったなー』と思った。
近くの建物からは黒い煙が上がっていた。その後、学校では、遠くの奉仕作業はなくなった。5月頃から、頻繁に警報が発令されるようになった。ある日、警戒警報があり、生徒は帰校せよとなった。私達が何もない麦畑の中を家へ駆け戻る途中、上空ではグラマンとの零戦の空中戦が行われていた。隠れる場所もなく、畑の境にある桑の木の影に身を潜めたが、白い服が目立つ。見つかれば撃たれると思い、桑の小枝を身体中に刺し、「動くな、動くな」と声を掛け合う。空を一面に飛び交う弾幕、入り乱れの空中戦の中、ばさばさと何かが落ちてくる。見れば麦畑の中には、撃ち出された機関銃の薬莢が散乱していた。私達は拾い集めて肩にかけた袋に入れた。79年前のこの日に撃たれた薬莢を数発、今日でも保管している。私達は早く戦争に勝って、戦いが終わればと、「零戦頑張れ、グラマン倒せ」と声をかけた。
1945年5月29日、朝晴れの9時頃、B29の大編隊が我家の上空を高度5、6千メートル位で横浜方面に向かっていった。上空からキラキラ光るテープが庭に落ちてきた。毒が付いいているから触るなと姉が言う。それはすぐに火が着くと母が言う。初めてみる得体の知れないテープに大騒ぎだった。私は竹の棒に挟んで、崖の下に捨てた。このテープは電波妨害のためで、毒はなかった。この時見たB29は横浜市を襲い、市民6千人が犠牲になった。この日の横浜空襲のさなか、ずしんと鈍い音がした。我家から4軒隣に砲弾が落下して破裂した音だ。破片が周辺建物に被害を与え、隣の家のご主人が犠牲となった。横浜市街の空襲による火災は、夜通し東の空を染めていた。
後を頼むと兄2人は兵役に行き、いつ帰るともわからない。13歳の私は託された田畑を守り、家族を支えていくという任務を全うしなければという自覚があった。防空頭巾を背負って真夏の炎天下の畑仕事、女と子供が声を掛け合って頑張った。7月からの戦況は更に厳しく、P51が搭乗員の顔がわかるほどの低空で、基地周辺を飛び回っていた。広島、長崎に原爆が投下され8月15日に終戦となった。空襲はなくなったが、私達は新しい恐怖に怯えた。アメリカ軍の先発隊が8月26日に厚木基地に進駐し、30日にはマッカーサーがこの大和に来る。何をされるかわからないと姉達は厚木の山奥の七沢に疎開した。残った母と私は途方にくれたが、小さな弟が私の引くリヤカーの後を押し、涙をふきながら頑張った。厚木基地では戦争は終わらず、反乱が起こっていた。基地の反乱は22日まで続き、翌日に武装解除、海軍厚木航空隊は解散した。
