日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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逗子市

戦争体験記

学徒出陣

三田村 氏

<紹介文>
三田村さんは立正大学在学中の1943年に21歳で学徒出陣により、陸軍の戦闘機の整備士として宮崎県都城の飛行場、鹿児島県知覧の飛行場で特攻機の整備を担当した。生きて帰ることを許されない幾人もの特攻隊員たちの出撃を見送った。
103歳(2025年時点)の今も、子どもたちに伝えていくことが「私が生きている証」と話す。
1922年3月31日、横須賀で生まれ、まもなく逗子の法勝寺に移り住み、寺を継ぐために立正大学で仏教を学んだ。
1942年4月18日、横須賀の空にアメリカの飛行機が2機、低い高度で飛んでいた。まさか日本にアメリカの飛行機が飛ぶとは、これは大変だと思った。 1943年10月21日、学徒出陣の壮行会が神宮外苑で行われた。銃と剣を持っていたので、逗子駅へ向かう満員のバスに乗れず、3キロほどの距離を遅れてはいけないと必死に走った。壮行会は、銃と剣を担いで行進した。雨が降っていたが冷たいとは感じなかった。学生の代表が「生等もとより、生還を期せず」と読んだ言葉が、胸に残っている。もう生きて帰れないんだなと…。
1943年11月30日は逗子国民学校(現:逗子小学校)でまちのみなさんからの激励を受け、川崎溝の口の東部第62部隊で歩兵として訓練を受けた。その後、試験を受けて幹部候補生となり、1944年4月1日、立川の陸軍航空技術学校への命令が下った。
そこで整備技術を学んだが、文学部出身の私は機械のことは何もわからず、エンジンの分解をしている時に「おい三田村、スパナ持ってこい」と言われてもスパナという言葉すら知らず、ことごとく大変だった。
1944年10月、三重県の北伊勢飛行場に配属された。そこにはプロペラが4枚あるとても速く飛ぶ戦闘機「キ84疾風」があり整備は大変だったが、こんなにいい戦闘機があるのだから、日本は勝つと信じていた。 1945年3月に宮崎県の都城西飛行場へ。その年の4月、沖縄防衛の「天一号作戦」が開始。都城西飛行場からも第一回の特攻作戦が始まった。
1945年4月29日、都城西飛行場も激しい空襲に見舞われ、一番仲の良かった北海道の戦友が死んでしまった。私はなんとか生き延びたが、兵舎が焼き尽くされ、私たちはトラックで知覧飛行場へ移動した。
やっとの思いで知覧に到着した私たちは、「ご苦労」と言ってもらえると思っていたが、少佐からの最初の言葉が「貴様ら死ぬんだから、髪と爪を切って遺書を書け」と言われたことを今でも覚えている。最初から死ぬんだと…。
知覧飛行場では逗子開成中学の同級生と再会し、校歌を二人で歌った。彼も特攻で死んでしまった。
特攻機の整備で一番嫌だったのは、ガソリンの補助タンクを外してそこに爆弾を取り付けたこと。
自分より若い飛行士も特攻に覚悟を決めて「お世話になりました」と挨拶していく。桜の花を手渡して見送ることも。みんな多くは語らなかったが、一人の隊員が「三田村、もう一回かあちゃんに会いたいな」と言ったのが耳に残っている。
~飛ぶ戦友(とも)よ 送る知覧に 桜散る~(その時の気持ちを詠んだ句)
特攻機が飛び立ってからも通信機での連絡があり、最後は「これから突っ込む」と。そして通信が途切れて「ツー」と鳴るその音が本当に嫌だった。
当時、我々は国を守るため、親を助けるためと信じ、上官の命令は天皇の命令とされ、疑問を差し挟む余地などなかった。
多くの戦友を亡くし、私も命を賭して戦わねばと思い、沖縄飛行場を奪還する敵前上陸作戦に志願したが、「まだ若いだろう。学生だろう。死ぬのはいつでも死ねる。それよりも、これからの日本をどうするか考えろ」と。あまりに軽くなっていた生の意識を、心ある上官の一言が取り戻してくれた。
終戦後、淡路島で残務処理に当たった後、何日もかけて汽車で逗子に戻った。亀ヶ岡神社で帰郷を報告し、それから3年ぶりに実家へ帰った。
進駐軍の命令により、大切に持ち続けてきた軍刀を没収された時は本当に悲しかった。
当時、逗子にあった池子弾薬庫は連合軍に接収され、戦争で荒廃した逗子はまち全体に敗戦の悲しみが漂っていた。このままではいけないと思い、次世代のため1950年逗子町の町議会議員に立候補した。私が最年少の議員だった。
まちの未来を考えたとき、列車が通り過ぎるばかりの地域にも新駅を作るしかないと考え、開業のために奔走した。1952年4月1日、東逗子駅が開業し2022年で70周年を迎えた。当時は大変だったが、本当に頑張ってよかったと思っている。
終戦後も知覧には何度も足を運び、友として、僧侶として、戦死した友にお経をあげた。みんな特攻観音。
~やや寒や 戦友(とも)を偲びて 朝の経~(その時の気持ちを詠んだ句)
お寺が運営する幼稚園の園長として、多くの子どもたちの成長を見守ってきた。子どもは宝。これからは子どもが日本を平和にしていかなければ。子どもの輝く未来のため、戦争は絶対にしない、そのための教育が必要。そうしなければ今がいくら平和といっても、どうやって子どもの未来を守るのか。私が長生きしているのはそのことを伝えるため、命続く限り伝えていきたい。

三田村 鳳治 氏