小田原市
戦争体験記
戦争のない平和な社会を次の世代へ
<人物紹介>
市内で戦争を体験した蓮上院(浜町)の前住職・濱武快晃さん
<爆弾との距離10m 無差別に脅かされた命>
昭和20年夏、当時私は5歳でしたが、幼心にも日ごとに悪化する戦況を感じ、不安な毎日を過ごしていました。そして、朝から夏の日差しが照り付けていた8月13日。この日、生涯忘れることのできない恐ろしい体験をすることになったのです。
朝食を済ませたところ、突然、小田原の町に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。すると、蓮上院の墓地に、数頭の牛が走りこんできたのです。山王川の河口付近にあった食肉処理場に連れていく途中で警報が発令され、飼い主が墓地にあった梅の木陰に牛を隠そうとしたようです。不穏な空気が漂うその光景は、今もなお、強烈な印象として鮮明に心に残っています。
その数分後、サイレンの音が敵機の接近を知らせる空襲警報に切り替わったのです。境内には、防空壕もありましたが、私は叔母と弟と共に、より頑丈な土蔵へ避難しました。にわかに緊張感が高まる中、土蔵に飛び込んですぐ、機銃掃射が始まりました。
「カタカタカタ」「カラカラカラ」。頭から毛布を数枚かぶっても機銃掃射の発射音や、銃弾が屋根にあたる嫌な音が聞こえます。かなりの低空飛行だったようで、米軍機の轟音はすさまじいものでした。そして、さらに「ズシーン」と耳を引き裂くほどの爆音が響き、大地を激しく揺らしたのです。初めて体験する衝撃で、恐怖におびえる時間が続きました。
ようやく静寂が訪れると、どこからか「助けて!」という声が聞こえます。促されるように外へ出ると、割れたガラスや木の枝、土砂が散乱し、先ほどまでとはまるで別世界。私が避難していた土蔵からわずか10m先の土塁(小田原城の総構)に着弾しており、九死に一生を得た思いでした。しかし、被弾した近所の民家が破壊され、寺に隣接する現在の新玉小学校では、教員と用務員の3人が犠牲となりました。
その2日後に終戦を迎え、私は翌年に新玉小学校に入学。校舎が破壊されたことで教室数が足りず、2年間は2部制で授業を受けていました。罪のない子供たちも、無差別に生命を脅かされるのが戦争です。現代は平和ボケの時代という人もいますが、争いのない世界の価値をよく理解して欲しいと思います。