平塚市
戦争体験記
平塚空襲
江藤巖さん
江藤巖さんは、両親と姉、兄、妹、弟の7人で暮らしていた12歳の時、平塚空襲に遭遇した。焼夷弾に襲われ、自身と弟は炎に包まれ大火傷を負い、妹はその場で息を引き取った。姉は足を切断され命を落とし、治療のためにともに応急救護所に向かっていた弟も、治療を待たずに息を引き取った。
空襲当時は12歳。平塚市の港の近くで両親と姉(16)、兄(14)、妹(9)と弟(7)の7人で暮らしていた。平塚はそのころ、第二海軍火薬廠のほかに日本国際航空工業、横須賀海軍工廠平塚分工場、第二海軍航空廠といった大規模な軍需工場が集中した軍事都市だった。
昭和20(1945)年7月16日夜、寝ていた私は父親の「空襲だ!」という声で目を覚ました。足にゲートル(足を保護するためにまく布)を巻こうとしたが、「早く裏に出ろ!」と父に言われて裏庭に出た。
外に出ても飛行機は確認できない。姉と妹、弟は防空壕に入った。両親と兄、そして私は、消火活動をするため家の軒下に立った。「焼夷弾は消す」のが国民の義務とされ、父や兄と訓練していたのだ。父が「今日こそ平塚だぞ。覚悟するように。」と言った。
そうするうちに、空から照明弾が落ちてきて、あたりを明るく照らし出した。すると遠くですさまじい火の手が上がり、空が真っ赤になった。空襲が始まったのである。100分間で40万本以上落とされた焼夷弾は、「ザーッ」という音と共に豪雨のように襲い、消せるはずがない。父に「駄目だ。危ないからお前も。」と促され、狭い防空壕の入り口から一つ目の段を降りた瞬間、目の前に強烈な青白い閃光を浴びせられ、私は思わず目をつぶった。その直後、体が燃え上がるように熱くなった。後は「熱いよう、熱いよう。」と泣き叫ぶしかできなかった。
父が防空壕から火だるまになった私を引きずりだして防火用水に投げ込み、体についた火を消してくれた。次に、父は弟を防空壕から出した。私と同じく火だるまだった弟も防火用水に投げ込んだ。弟は一人で上がってこられず、私が弟を引っ張って防火用水から出した。その間に、父は姉を防空壕から抱え出した。姉には火がついていなかった。父は姉をその場に立たせ、最後に妹を助けに行ったが、姉はその場ですてんと転んでしまった。姉の右足のスネの部分が切断され、皮一枚でつながり、ひどい出血だったのだ。助け出された妹も火はついていなかったが、ぐったりしていた。父が大声で呼びかけても反応がない。父は「駄目だ。」と言って妹の体を地面に置いた。即死の状態だった。後日、妹の胸に焼夷弾の破片が貫通した跡があることを知った。
姉の腿をきつく縛って止血し、近くにある海岸を目指して避難することにした。父が姉、兄が弟をおぶった。父は私にそんな状態で歩けるか聞いた。このとき私は、両足に野球ボールほどの水ぶくれが無数にできていることに気付いたが、母は妊娠8か月でお腹が大きく、おぶってもらうわけにはいかない。そう思った私は、自分で歩けると言った。しかし、歩くと水ぶくれがぶつかり合って猛烈に痛み、数歩歩いては立ち止まり、どんどん家族から遅れていった。
その間も姉が「水が欲しい。」とあまりにも泣き叫ぶため、海岸に行くのは諦め、手前の安全な砂地に到着した。父は「水を飲ませるな。出血多量で駄目になるぞ。」と言ったが、姉は自分の状態がわかっていたようで「私は助からない。せめておいしい水をいっぱい飲みたい。」と言って泣き続けるため、母が家から持ってきた4リットルほどのヤカンの水を飲ませた。姉はあっという間にヤカンの水を飲み切ってしまい、近くの家の井戸から兄がもらってきた水も、瞬く間に飲み干してしまった。飲むたびに姉の足からは大量の出血がみられた。
その後私は砂地に寝ころび、気を失ってしまった。目を覚ましたときに、自分が家で寝ていることに気づいた。私の隣には弟が寝ていた。近所の人が、私と弟を戸板に乗せて、横須賀海軍工廠の軍医がいる救護所へ運んでくれた。まず、私が診てもらい、水ぶくれをすべてつぶされ、包帯で巻かれた。次に、弟が医師の前に連れて行かれたが、医師が「駄目だ、次」と言った。弟は運ばれる途中で息を引き取っていた。
平塚市は焼け野原となり、きちんと治療を受けられる病院もなかったため、翌日、母の実家で親戚がいる厚木市にリヤカーで避難した。その間私は意識を失い、次に目を覚ましたのは5日後の23日だった。その後も大勢の人の協力のお陰でその年の12月に治療が終わり、平塚市へ戻ってきた。
皮肉なことに、避難した防空壕は焼夷弾の直撃を受けたのに、家は無事だった。空襲が終わった後に、母が「こんなことなら避難せず、家で寝ていれば皆無事だったのに。」と歎いたことを、今でも思い出す。
空襲の体験を話すことは家庭内でもタブーだし、職場ですら話したことがなかった。転機は30年前。平塚市博物館が開催した空襲50年の展示会に足を運ぶと、学校日誌の中に弟妹の名前を見つけた。日誌を見つめていると、2人が訴えかけてくるように感じた。何かしなくては、と衝動に駆られ、その日のうちに「平塚の空襲と戦災を記録する会」に入会を決意した。現在は、「平塚空襲の体験をきく会」の講師としても学校の授業に出向き、戦争を知らない世代に向けて自身の経験を伝えている。私が子どもたちに伝えたいことは、「考え抜いて自分の意見を持ったら、それを大勢の前で堂々と言える大人になってほしい。」ということだ。
数千メートル上空から投下され、木造家屋を貫く焼夷弾を本当に消せるのか、海岸に設置した高射砲で米軍の爆撃を防げるのか―。当時、陰でヒソヒソ話す大人はいた。しかし、軍や世間への恐怖で表向きは口をつぐみ、気付いたら言えなくなっていた。
昔も今も、社会の行く末を誤らせないのは、普段からの、一人一人の、黙らない勇気だと思う。誰かがやってくれるからと期待するだけではなく、平和は自分たちでつくらないといけない。戦後80周年という節目が、その契機になればと願う。
