日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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川崎市

戦争体験記

・川崎空襲を伝える体験談・戦時中の暮らしや体験

小川 一夫 氏

 小川一夫さん、空襲被災当時15歳、現在の川崎区宮本町付近で両親と姉の4人で暮らしていた際に川崎大空襲に遭う。空襲で家を焼失したため、父親の故郷である横浜市に移り住むものの、そこでも空襲に遭う。体験談の寄稿や、空襲体験談を御講演いただくなど、戦争の記憶の継承に携わっていただいています。
 戦争体験記では平成28年に寄稿いただいた「川崎空襲を伝える体験談」を掲載させていただくとともに、改めて当時の様子をお聞きしたので、「戦時中の暮らしや体験」として掲載させていただきます。
【川崎空襲を伝える体験談】
 4月15日夜遅く、けたたましく空襲警報のサイレンが鳴り、敵機が頭上に現れたものの、焼夷弾は落ちてこず、我が家近辺は大丈夫であろうとのんびりかまえていた。前面は幅員の広い国道1号線であり、背後には稲毛神社の広大な森があったからだ。しかし、区域の外周に焼夷弾を落とし、その内部に延焼させる敵機の作戦だった。背後の森の生の木が燃えて、火の手が迫ってきた。道の向こう側にも火の手が延び、我が家に炎が吹き込む。逃げ出すことになった。
 道路は避難する人たちが右往左往している。近くの六郷橋の下に避難しようとしたが、もう人がいっぱいで前に進めない。引き返す途中、近所の若い女性と出会ったが、彼女は顔の左側に焼夷弾を浴びたとかで、大変な怪我を負っていた。前後左右を火と避難民に囲まれながら我が家に戻り、国道を海岸の方にある広い野原へと進んだのだが、旧川崎警察署の四つ角で進退は極まってしまった。両側から噴き出してくる火炎が、道の中央で責めぎ合っている状態である。進もうとしても火炎の中を突破しなければならない。失敗すれば焼死するだけである。逃げ出す際、自転車にリヤカーを付け、家財道具類を乗せていたのだが、積み直して中に空洞を作り、そこに母と姉を入れた。父が自転車を引き、私がリヤカーを押すことになった。
 「いいか、何がなんでも離れるな。疲れたらリヤカーにしがみついていろ。引きずっていくから」
 父の言葉に励まされて火炎の中に突入した。熱いなどと言っている余裕などない。目をつぶって前進し、何とか火炎地獄を抜け出したのだった。目指した野原付近はすでに大勢の人が避難していた。座る場所を確保してほっとしたが、母校の中学校が炎上するのをただ見守るだけであった。
 明け方、我が家に戻ったが、何もかも焼失してしまっていた。立っている水道管からのちびちびと漏れている水だけが残っているものの全てある。位牌も写真も衣類も食料も持ち出せなかった。
 川崎市内に知人はいるが、多分被災しているだろうし、他に頼れる人もいない。食べるものもなく、すきっ腹を抱え、途中で水を飲ませてもらいながら、何とか父の故郷の横浜に辿りついた。
 一旦、母の故郷である厚木に身を寄せたが、その後、横浜の東神奈川に転居し、再度被災することになった。
 2度の被災で、両親は積み上げた資産の全てを失うことになったのだが、家族6人は欠けることなく、健康で終戦を迎えることができた。それがせめてもの救いである。
 今、私は傘寿を越しているが、火災の中の道を走った記憶が消えることはない。
【戦時中の暮らしや体験】
 当時、両親と姉と4人で暮らしていました。妹と弟は厚木の親戚の家に縁故疎開をしていました。当時は集団疎開をするといじめられるということがあったので、それを配慮してのことでした。
 私と姉は勤労学徒として働いていました。
 川崎大空襲の少し前、昭和20年3月10日だったと思いますが、その日の夜、空襲警報が響き渡るのを聞くとともに、爆撃機の「グー」という、何とも言えない低い音を耳にしましたが、爆撃機は高いところを飛んでいたらしく、その姿を見ることはありませんでした。
 川崎を狙うならもっと低い場所を飛ぶだろうと考え、その夜は眠りにつきましたが、深夜家族から「東京がやられたらしい」と聞き、家の外に出てみると、東京方向の空は真っ赤に染まっていました。
 その後、川崎大空襲で我が家が焼失したため、現在の横浜市神奈川区に引っ越すことになったのですが、勤労学徒は続けていたので、川崎と横浜を往復する日が続きました。
 そんな中、電車不通で我が家に向かって国道1号線を歩いていた時、大勢の人が集まっている場面に出くわしました。その大勢の人たちは何かに向かって合掌して拝んでいました。皆が拝んでいる先には死体がありました。母親が子どもに覆いかぶさるようにして死んでいたのです。
 その母親は「私が死ねば子どもを押しつぶしてしまう、何とか生き延びて我が子を助けなければ」と考えたはずですが、死の間際、子どもを救えないと理解した母親はどんな悲痛な想いをしたのだろうと考えると、今でも言葉に詰まってしまうことがあります。
 私は中学2年時に予科練に志願するつもりでした。予科練は航空士官候補生とは言え、その当時特攻をさせられていたので、母親は気が気でなかったと思います。結果として、私が早生まれということで、志願は翌年まで待たなければならず、その間に8月15日の終戦を迎えることになったのです。当時、日本中がお国のために我が身を捧げるという空気の中、母も公には私を止めることはできません。私が予科練に行かず終戦を迎えたとき、母親は安堵したのではないでしょうか。
 終戦を迎え、これで戦争によって死ぬことはなくなったと思いました。電球の灯りが外に漏れないように被せていた覆いが日本中で外されたこともあり、日本が明るくなったような気がしたことを覚えています。
 戦後から80年が経とうとしていますが、今の世代の人たちには当時のような悲惨な想いをしてほしくないと思います。そのためにも今の人たちが知り得ることのない、当時の悲惨な体験を知ってほしいと考えたのです。
 もう戦争はこりごりです。

小川 一夫 氏