日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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西東京市

戦争体験記

私の少年時代は戦争だった

横山 年三 氏(西東京市田無町 一九二八年(昭和三年)生)

一、空への憧れ
 私が八才の時、日中戦争が始まり、十六才で終戦となった。世は正に軍国主義時代、男子たるもの国の為に死ぬことは本望といわれていた頃です。中学生になって工場動員で徹夜勤務をするようになり、何時、空襲を受けて死ぬことになるかも知れない時代でした。当時の少年達の憧れは少年飛行兵でした。私も海軍甲種飛行予科練習生に志願し、三重海軍航空隊奈良分遺隊に入隊しました。軍隊生活の厳しさはある程度覚悟していました。
二、通信術で鍛えられる
 予科練の教科は、一般学科・軍事学科等盛沢山です。モールス通信の習得は飛行兵として不可欠です。最初から一分間六十字のスピードで受信することが要求されました。毎晩夕食後に講堂で指導を受けました。符号は・─の組み合わせで、イロハ四十八字の他に記号や数字など、一寸聞き洩らしたりすると五~六字飛んでしまいます。ミスがあればゲンコツやバッター(軍人精神注入棒)の制裁が待っています。二ヵ月で完全に受信せよという命令です。モールス通信が取得出来ると発光信号の学習がこれに続きます。夜、電球を点滅してモールス符号を受信します。「まばたき」すると符号が切れて別の符号になってしまいます。したがって、長時間眼を閉じない訓練をする必要があり、涙がボロボロ出てきました。
三、手旗信号
 手旗信号は右手に赤、左手に白の旗を持って上下左右斜に手を振って信号を送ります。手の振り方が正しくないと、受信者が混乱します。基本となる手の振り方、角度が厳しく指導され、正しくないと手旗で容赦なく叩かれたものです。時には、手を振り上げた姿勢で三十分以上もそのまま待たされたことがありました。制裁だったのです。
四、連帯責任
 軍隊生活は団結して任務に当たることです。一人のミスが任務の遂行に支障を及ぼすことがあります。一人でもミスがあると厳しい制裁が待っていました。就寝後に叩き起こされてアゴ(拳骨で頬を何回も殴る)やバッター(軍人精神注入棒で尻を何回も叩く)は毎晩のようにありました。と言ってミスをした者を怨むことはありません。教員から見ると、我々新兵の行動は歯がゆく見えたのかも知れません。それは私が後輩の指導練習生として、その任についた時に感じました。教員は第一戦で戦闘に参加してきた歴戦の勇士です。中にはガダルカナル島の激戦地を体験された方がおり、その苦戦の状況を教訓として細かに教えてくれました。後方からの補給が絶たれ、草は言うに及ばず鼠を捕えて食べたそうです。体力はみるみるうちに消耗して、骨と皮ばかりになり、戦死した戦友の遺体を埋葬出来ず落葉を集めて掛けてやるのが精一杯だったということです。
五、予科練教育中止となる
 我々の教育が進むに従い各地に航空隊が開隊され、奈良から清水海軍航空隊に転属となりました。飛行兵長に進級し、操縦・偵察に分かれて専門課程に進む頃となった時、戦局の逼迫により資材・人員等の余裕がなくなり予科練教育は中止となりました。予科練習生も本土防衛のために陸戦隊編成となって、沿岸防備・飛行場警備等に当ることになりました。
六、震洋・桜花基地建設
 我々が最初の任務についたのは震洋基地の建設でした。震洋というのは木製のモーターボートの前部に爆薬を装備した特攻艇です。清水は駿河湾に面しているので特攻艇基地に最適の要件が整っていたのだと思います。施設部隊に協力して建設に従事しました。震洋基地建設の途中から、我々は、桜花基地建設を命ぜられ、後輩達と伊豆半島の熱海峠に派遣されました。桜花とは、ロケットで上昇して敵艦を攻撃するために開発された戦闘機です。熱海峠の山中に桜花を発進させるためのカタパルトを建設するため、山中の宿舎に居住して、後輩を指導し乍ら作業に従事しました。作業の途中で転属を命ぜられ横須賀軍港に着きました。
七、特殊潜航艇出撃横須賀軍港内に待機中、「鮫龍が出撃するぞ。」という声が聞こえてきたので、戦友と桟橋へ駆けつけると、今しも五隻の鮫龍が出撃するところでした。鮫龍とは小型の特殊潜航艇です。南方の戦場に向って出撃するところでした。乗員には予科練の先輩がいます。二度と戻って来られない先輩達を見送るのに言葉が出ませんでした。皆、無言で帽子を振って見送るだけです。涙が溢れて止まりませんでした。これ程悲惨な別れはないでしょう。我々も何時かはこの様な立場になるかも知れないと感じました。
八、海軍水陸両用戦車隊へ
 いよいよ我々も陸戦隊へ配属されることになりました。横須賀鎭守府第十六特別陸戦隊(十六特陸)です。私の所属した十六特陸第二中隊は千葉県富浦町に駐屯していました。この部隊は水陸両用戦車隊で、戦車の正式名称は特二式内火艇といい、海上に浮いている所は漁船のように見えました。この戦車は、海軍が上陸作戦用に開発したもので、百八十両以上生産されました。この戦車の訓練は瀬戸内海の情島(Q基地と呼ばれた。)で行われ、軍事機密のため水陸両用戦車という名称は使用しませんでした。この基地から南方へ出撃し多くの先輩は散華され、一人の生還者もありませんでした。我々はその留守部隊に配属されたのでした。我々も海軍に水陸両用戦車があるとは夢にも思っていませんでしたので、実物に接した時は驚きました。まして、この鉄の箱が海に浮かぶとは、当時の新聞にこの戦車の写真が掲載されたことはなかったので国民は知りませんでした。この部隊の任務は敵が本土に上陸した場合、背後から攻撃して敵に打撃を与えることでした。すでにサイパン島、硫黄島が米軍の手に落ち、沖縄にも戦火が拡大して、本土防衛に時間の余裕はなく、一旦、出撃すれば生還しない特攻隊に来たのだと、ひしひしと感じました。
九、通信兼機関銃
 戦車での配置は指揮(車長)、操縦、通信兼機関銃、戦車砲です。私の担当は通信兼機関銃で、機関銃席の横に通信機が設置されているので、一人二役になります。当時の通信機器は真空管式で電力の消費量も多く、機器の大きさや電池は、今とは較べようもない程大きく重いものでした。通信は電鍵を叩いてモールス符号で交信します。我々は既にモールス通信は習得していたので、これが生かされる時がきたと胸がわくわくしてきました。後は通信機の操作に馴れるだけです。戦車は海岸の松林の中に分散し、隠蔽してあります。訓練の第一は周波数が指示され、全車がその周波数に一致することです。一号車と二号車が交信している間に他車はその電波を傍受して受信調整の時間を短縮するようにします。何回か訓練を重ねる中に交信の時間を短縮することが出来るようになりました。当時は現在のようなエアコンの設備がなく、松林の中とはいえ蒸し風呂のような暑さの車内です。訓練とはいえよく耐えられたものと思います。車外に出た時、海風の涼しかったこと、高原の涼しさとはこのようなものかと思いました。
十、射撃訓練に入る
 通信機の訓練が終わったことで、いよいよ射撃訓練に入りました。射撃場は館山海軍砲術学校の射撃場です。機銃を撃った時の発射音は車外に出るので、車内では、引金を引いた時の「カチッ」という音だけでした。機銃は一発ずつ発射するように調整出来ます。最初の一発は夢中で撃ったので、車長からよく狙えと注意されました。落着いて照準器を覗くと標的がよく見えてきました。呼吸と引金を引くタイミングが大切であることを知りました。
十一、隊長に命を預ける
 昼夜を問わず猛訓練が続き、任務の遂行に明け暮れる日が続いた昭和二十年八月のある日、夜半に「至急中隊本部に集合せよ。」という命令がありました。暗闇の中、本部に集合。隊長より「大島南方に敵機動部隊があり本土に接近中、これから空襲や艦砲射撃があるかも知れない。貴様達の命は隊長が預かる。それぞれの故郷に向って、最期の別れの挨拶をしよう。」と言われました。覚悟していたとはいえ、これで十六才の生涯が終るのかと一瞬涙が滲んできました。入隊以来一度も帰省していない故郷の風景や家族の顔が脳裏を掠めていきました。特攻隊で出撃していった先輩達の心情がわかったような気がしました。それから戦車に戻って、燃料、弾薬を満載して、戦闘準備が急ピッチで進められました。夜が明けてきた頃、車内を見回すと、我々は、弾薬箱の隙間にいました。砲塔の内側にはピカピカの真鍮が光る砲弾で、ぐるっと囲まれており、直撃弾を食らえばあの世行きという状況でした。しばらくして辺りの静けさに気がつく。どうなっているのかと思っていると、戦闘配置解除の連絡が入りました。大島の見張所が誤報を出したということでした。ここで緊張感が一気に崩れていきました。命拾いしたのだから有難いと思わなければなりません。これが実戦であったなら、いま生存している人の何人がと考えると、平和の有難さをしみじみ感じずにはいられません。復員して田無駅に着いた時、爆撃の跡生々しく、駅前には大穴が出来、ホームは飛ばされて木造のホームになっていました。