日野市
戦争体験記
『手作りの教科書』家族で満州の奉天へ
杉江ヨシエ
現在85歳。日野市に住んでいます。満州で過ごしていた頃は、父・母・杉江さん・妹の4人で過ごしていた。いよいよ満州も危ないと父が判断し、帰国することになった。船で渡航中、上空を軍用機が飛び交い、周りの船は攻撃されたが、杉江さん達の乗る船は奇跡的に助かり、日本に着いた。戻ってからは、しばらく川崎や日野市で過ごし、その後北海道の親戚を頼り船で下頓別へ疎開した。北海道で、妹・弟が生まれた。満州から一緒だった妹は59歳で亡くなった。
『手作りの教科書』
家族で満洲の奉天へ
大学で法律を学んだ父は、いつも六法全書をかたわらに置き、新聞でも何でも疑問があると、まず調べる人でした。3歳の時、戦地から戻った父が満洲日立製作所で働くことになり、家族で満州の奉天に渡り、豊かな暮らしをしていました。父は購買部の課長をしていたため満洲と日本を頻繁に行き来し、内地と外地、両方の姿を見ていました。決して報道されない、日ごとに悪くなる内地の状況を見ていた父は「この戦争は負ける。」と判断し、昭和19年秋頃、会社をやめて家族と内地に帰ることを決断しました。日本行の船にはたくさんの人がのっており、はぐれたらもう会えないような状態でした。一度ははぐれてしまったが、父がしっかりと手をつないでくれたので安心しました。船の上空ではB29が旋回し、沈められた時のために救命胴衣をつけて覚悟していたが、攻撃されず、何とか日本に帰ることができました。満州退去があと一か月遅れていたら、爆撃や魚雷で船が沈められていたかもしれなかったです。あの時の父の大英断が、家族の命を救ってくれたのです。鉄骨煉瓦造の社宅には温かなペチカがあり、二重サッシの窓からは池とマロニエ並木が見えました。奉天の町にある大きなデパートには華やかな商品が並んでいました。美しいところでした。90歳まで生きた母は、「満州時代が一番よかった」といっていました。しかし、この豊かな暮らしも終戦と共に暗転し、2年で終わりを迎えました。社宅にいた友達の多くは、飢えと厳しい寒さの中で亡くなったと後で聞きました。父の早い決断が生死を分けました。
引き揚げ後の暮らし
満州奉天から引き揚げると、しばらく神奈川県川崎市にある母の実家へ身を寄せました。
その後は、父が日野にあった神戸製鋼東京研究所に勤めたため、数か月間、家族で日野に住みました。その間、父母がいない昼間に爆弾が落とされたことがあり(昭和20年2月17日の空襲か)、妹を抱っこして家の前にあった地下式防空壕に逃げ込んだこともありました。東京も危なくなったと判断した父により、昭和20年4月の小学校入学を前に、父の実家のある北海道に疎開しました(父は家族を送った後、日野に戻りました)。列車は、爆撃を受けながら止まっては走り、止まって走りながら何とか免れた感じでした。すし詰め状態だったため、子供は窓からトイレをさせられて、いやでした。終戦は北海道で迎えたが、父が「もう、これからはずっと戦争がないからね。」と言った時の情景は今も忘れられません。昭和21年、父の仕事の都合で、米海軍厚木飛行場(旧海軍厚木飛行場)のある鶴間(神奈川県大和市)へ転校しました。物資不足のため、転校生に教科書はありませんでした。母は毎日のように、近くの友達の家から教科書を借りて来て夜遅くまで書き写し、私のために教科書を手作りしてくれました。食べ物は、コッペパンや、進駐軍の大きなバケツのような入れ物に入ったシチューみたいなものでした。母と行列を作ってとりに行きました。家にはお風呂が無く、行水か、町田のお風呂屋さんまで電車に乗って出かけました。ある日ドラム缶が家に運びこまれ、板を敷き、五右衛門風呂ができました。ささやかな日常生活を、少しずつ、何年もかかってとり戻していきました。鶴間にはお屋敷がたくさんあり、そこで父は会社を始め、その後、千葉を経て大田区へ移り住み、社長をつとめあげました。
戦争は自然を破壊し、人々を殺し、世界を荒れはてた恐怖の世界に変えてしまいます。もう誰もそのような思いをしてほしくないです。国立市在住の孫が、私の思いを受け止め標語にしてくれました。
『目を背けずに、過去を受け止めよう そこから始まる 私達の未来』
