町田市
戦争体験記
焼夷弾の恐怖~小野路空襲の記録~
【はじめに】
2001年(平成13年)2月に町田市が発行した『町田市平和ブック2―戦争時代の体験記―平和への祈りをこめて』に掲載されている青木三男さんの空襲体験記です。青木さんは当時17歳で、1945年5月25日の空襲で家屋被害を受けました。
【焼夷弾の恐怖~小野路空襲の記録~】
その日は朝からいい天気で気温もどんどん上昇し、汗ばむほどの陽気であった。午前中は、そのころ軍隊で使用する松根油(しょうこんゆ)を取るため、山から掘り出した松の木の根っこを牛車に積んで、組合の人たちと小田急線柿生駅まで運んで行った。小野路の宿(しゅく)の自宅に帰ってきたのはお昼も過ぎていた。
その日は、私の17歳の誕生日であった。母はお昼に五目(混ぜご飯)を作っておいてくれた。家ではいつも兄弟の誕生日には五目を作ってくれていたのである。そのころはわが家では五目が一番のご馳走だったのである。
午後も一通り仕事を終え、夕飯時、今夜は空襲があるかも知れないなどと家族と話をしていたものである。私は9時を過ぎたころ、少し早いが床に就いた。
すると間もなくラジオで、「警戒警報発令、警戒警報発令、敵機数十機、駿河湾はるか南方海上を北上中」という第一報が入った。そら来たと思い、急いで身支度をし、電気を消して表へ出た。するともう4、5人の人がいて空を見上げている。
いつもなら庭に掘った防空壕に、大事なものを包んだ風呂敷を、4、5個必ず入れて置くのであるが、その晩に限り、まさかここに焼夷弾など落とすことはないと思い、玄関先に置いた。何があってもそこに置けば持ち出せると思ったからである。
そうこうしている間もなく、「空襲警報発令、空襲警報発令、敵機数十機は駿河湾から本土へ侵入、東進中」との第二報が入った。いよいよ来たかと思っている間もなく、ものすごい爆音を轟かせながら一番機は西の空から東の空へ消えていった。それからは次から次へと図上を通り過ぎていったのである。ややしてから火災により東の空は真っ赤になってきた。それからどのくらい経っただろうか、そろそろ飛んで来る敵機がまばらになってきたころ、同級生の勝辰雄君が東京の燃えている状況を見に行こうという。そこは自宅からは700メートルぐらい北の方角にあり、登り坂の途中にある一本木という所である。周囲が畑で小高い丘になっていて、前は何も遮るものがなく、東京や横浜方面が一望できる場所である。
二人は駆け足で合いの道の上り坂を通り、石久保の所まで来た。その時、左後方でサァーという夕立でも急に降ってきたかと思われるような音がした。瞬間的に振り向くと、わが家のある小野路の宿の西側に桜の木が一列に植わっている高台の畑があるが、その桜の木の枝をかすめるように45度くらいの角度で畑の北側からわが家を目がけて焼夷弾の火の雨が降っていたのである。私は無我夢中で家に駆け戻った。すると既に二階の屋根の庇の所からものすごい勢いで火が吹き出していた。とっさに玄関の出入口に置いた風呂敷包みのことが頭に浮かび、庭の方へまわってみた。だが、そこはもう火の海で、とても風呂敷包みを取り出せるような状況ではなかった。
急いで裏の勝手口へまわってみた。そこにも焼夷弾のかけらが1メートル30センチくらいの高さで燃えていた。私はとっさに踏み消そうと右足を炎の中に突っ込んだ。するとグニャッとするような感覚で、靴に焼夷弾の油脂が生ゴムのように張り付いてしまい、ズボンが燃え出しそうになった。夢中で地面にこすりつけたが、なかなか消えない。仕方なく、靴を脱いで叩いたり地面に殴りつけて、ようやく生ゴムのような油脂を取り除くことができたのである。
そこの位置から玄関までは10メートルくらいだと思って風呂敷包みを取りに行こうと思ったが、一瞬、爆弾が落ちていたら大変なことになると思い、躊躇してしまった。仕方なく家の前の大通りへ出た。すると二階の庇からの炎はさらに拡大し、一階の庇からも炎が噴出していた。火は南側から燃え始めて北側に移り、さらに西側に移行していったように思えたが、ほとんど同時に燃え上がったと言っても過言ではなかった。
無風状態のその夜は炎が真上に舞い上がり、私は恐ろしくなって逃げることにした。大通りにいても熱く、一刻も猶予できる状態ではなかった。
隣の家の前にくると、石丸栄吉さんというおじさんがいて、「ミッちゃん、逃げよう」という。栄吉さんの家もものすごい勢いで燃えていた。歩いていくと、その隣の上角屋(かみかどや)の家も屋根の所から燃え始めていた。私は着の身着のままで、栄吉さんは食べ物の入った鍋を右手で抱えて逃げることにした。宿のはずれの辻の所まで来た時、喉や口がカラカラに渇き、どうすることもできない。栄吉さんに、「水、水」と言うと、「じゃあ石久保へ行こう」という。
二人は狭い上り坂の道をどんどん登り、小宮万造さんの家へ行った。その家に井戸は無く、遠くから水を汲んで飲料水にしている家で、ちょうどいい具合にバケツに水が一杯溜まっていた。急いで首を突っ込み、ガブガブご馳走になった。これでよしと思いながら来た道を戻り、堂場橋を渡り、小山田へ抜ける山路を登って行った。坂の頂上付近に来ると平らな見通しのいい場所に出た。栄吉さんがこの辺まで来ればもういいだろうという。後ろを振り向くと、すぐ前の山の向こうの窪地のわが家からは火の粉が舞い上がり、上空は天を焦がすばかりに真っ赤に染まっていた。
~中略【栄吉さんの親戚の家へ避難】~
少しうとうととしたのだろうか、目が覚めると外は薄明るい。私は一人で起き、トボトボと足は家の方へ向いていた。まるで放心状態であった。桜の木のある所まで来ると、畑には焼夷弾の燃えた跡があった。そして橋を渡り、家に着いた。見ると、母屋で物置は大黒柱の根本から僅かに青い煙が出ているのみで、跡形もなく灰になっていたのである。しばらくはただ茫然としていた。辺りを見渡すと、庭には無数の焼夷弾が地面に突き刺さったり転がったりしていた。焼夷弾に付いている9貫800匁もあるという錘が2個も落ちていたのである。これではわが家はとても助かるどころではない。わが家は焼夷弾の落ちた中心であったのである。周囲の7、8軒の家も全焼であった。
~中略~
罹災後は、家族一同着の身着のままで一からの出発であった。母屋と物置をことごとく焼失したわが家にとっては、筆舌では言い表せないような地獄の生活が続いたのである。不幸中の幸いというか、家族一同が焼夷弾の直撃を受けることもなく元気であったことは何よりで、一致協力して再建に取り組んだ。