日本非核宣言自治体協議会 National Council of Japan Nuclear Free Local Authorities

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青梅市

戦争体験記

私の体験した戦時下(「戦後75年 未来を生きる皆さんに私たちが伝えたいこと」より抜粋)

本橋 文子 氏

戦争・事件当時(昭和20年2月6日)は十三歳。女学校一年生の時に学徒動員で昭島の昭和飛行機に働きに出ました。終戦を迎えたのは十四歳の時です。
 友人の牧野さんを亡くしたあの日のことは忘れられません。あの日私は、昭和飛行機に行くので奥多摩から来る電車を青梅駅のホームで待っていました。空襲中でアメリカの飛行機が飛来、奥多摩方面から電車で来た人たちに先生が「降りなさい!」と言いました。でも彼女はきっと先生の「降りろ」が聞こえなかったのでしょう、降りることなく電車が青梅駅を出発して東青梅駅を出たところで撃たれました。アメリカの飛行機からの銃撃に二人が被害に遭われましたが、男性は脚を貫通、彼女は、その撃たれた男性の脚に当たった弾が跳ね返ったことにより怪我をしました。出血多量で輸血が必要な状態でした。事件現場付近にいた女学生で彼女と同じO型の人は現場に行って輸血するようにと命じられ、私は同級生と先生と急いで駆け付けました。現場付近にはおそらく歯科医だと思われる医師がいて、負傷した彼女を診てくれたようです。ですが、出血多量だからどうすることもできず、私たちが駆け付けた時にはやっと息をしているくらいでした。「頑張れ、頑張れ!」と声をかけましたが、私たちの目の前で彼女は息を引き取りました。私と同級生はその場で泣き崩れました。
その頃学校では、勉強なんて全然しませんでした。十三歳だから働けるなんて状態ではないけれど、先生も一緒に、百人程度で工場に行きました。府立第九高等学校の一年生は軍需工場に動員で行っていました。私たちの担任は女性の体育の先生で、その先生がみんなを工場まで引率してくれました。軍需工場で私たちは、ダグラスの輸送機の燃料タンクに、金の板のようなものを使った蓋を作っていました。それができると飛行場へ持って行くのです。国民総出で仕事に従事しましたね。毎日、土日も休みなく働いていました。それでもご飯は出ました。おにぎりはちゃんと持たせてくれたのです。当時は純粋な白米ではありませんでしたが、健康に気を遣ってかご飯に茶色い何かを混ぜたものが出たりもしました。
空襲になると電車が止まってしまうので、軍需工場から歩くんですよ。小作まで来ると青梅線が動いているから、そこまではどうにか歩かなければいけません。朝八時~九時頃に家を出て夕方五時くらいまで働き、そこから青梅線が止まっていれば歩いて帰ってくるわけです。青梅線の線路の上を歩くのですが、長い時間本当によく歩きました。そんな私を見て母親が、「なにかあったら道中食べなさい」と豆を煎ったようなものを袋に詰めて持たせてくれました。
軍需工場での働きに、少しですがお給料も出ました。封筒に入れたものを直接先生が分けてくださいました。私のお給料はお小遣いにはせず、母親に預けていましたね。
空襲があるとこの辺の人は永山に逃げました。辺りの空一面が真っ暗になるくらいB29がやってきました。八王子方面から青梅の方に廻って飛んでくるのです。永山に防空壕がありましたが、壕の中は浅く屋根もありません。私が立つとちょうどくらいの高さでした。当時動員で働きに出ていた飛行場にも防空壕があり、空襲の際には避難しました。中に入ると不安になり危険だとはわかっていても、顔を出して外の様子をうかがったものです。そうするとすぐ近くの飛行機に乗っていたアメリカ兵数人が、身を乗り出して射撃してくるので薬筴がこっちに飛んでくるのです。熱くて、何より、怖くてたまりませんでした。
戦時中、あまり食べ物に困った経験はありません。母親の実家が食品製造をしていたこともあり、比較的お米も手に入りやすい環境でした。戦時中はすいとんや芋茎、さつま団子(さつまっこ)などを母親が用意してくれました。家の地下に涼しい貯蔵室があり、そこにはよく作り置きを保存していました。また、父親が千葉や新潟の方に行って何かしら買って来てくれていました。男手が少ない中、近所の人がトラックを出してくれたり、皆協力して生活していましたね。母親は疎開に来た人の面倒を見ていました。
疎開先になるという点においても、青梅は比較的安全だったということですね。
 戦時中、親兄弟の安全を祈願する時には、この辺りの人たちは高水山によく行きました。
 終戦のあの日、「これから何か天皇陛下からお話がある」とかしこまって母親が言うのです。ラジオの音は私には聞き取れず、母親になんて言っているのと聞くと、戦争が終わったと告げられました。父親は戦争が終わって祝福ムードというよりは、悔しかったという気持ちのほうが大きかったと思います。
戦争があった時代を知らない方と話をすると本当にそんなことがあったのか、なんて言われます。こんな風にお話ししても信じない人が多いですよ。経験した人でなければわからないことがたくさんあると思います。